【筑紫哲也の生き方】原点は「昭和10年生まれだからね」、知られざる政治記者時代…最後にテレビの世界を選んだ理由

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昭和10年生まれ

 1935年に大分県で生まれた筑紫さんは、10歳で敗戦を迎える。軍国主義から民主主義へ。鬼畜米英を叫び、欧風文化を憎んでいた日本に雪崩れ込んできたのが、米国の消費文化だった。180度変わってしまった世の中や大人たちを見て、国家や組織への忠誠心がいかに脆弱なものかと筑紫さんは身に染みたに違いない。彼がひとりの自由で自立したジャーナリストであろうと志した原点は、「昭和10年生まれ」にあった。

 自由を愛した。大声で他者を論破したり圧倒したりする人と一線を画した。やたらと目立つ行動をするのも嫌った。だが、繰り返すが、残念ながら現在のメディアには、やたらに「経歴」をひけらかす輩もいる。海外特派員だった過去を後生大切にし、何かあれば「ワシントンはね」「ロンドンはね」と偉そうに高説を垂れる記者もいる。

 筑紫さんは政治部出身であり、ワシントン特派員も経験したが、彼の書いたもので上から目線で書かれたものはないのではないか。「朝日新聞の筑紫」だとか、のちに転じる「TBSの筑紫」だとか、巨大組織を盾に論を展開することはしなかった。68年から2年間、米軍統治下の沖縄に特派員として勤務。沖縄の現場を本土に発信した。沖縄が終生のテーマとなったのである。

 と、ここまで書きながら、ちょっと良いことばかり書きすぎたかな、と反省する。筑紫さんの人間くさい面も書き残しておきたい。

 インターネットメディア「デモクラシータイムス」で2019年7月24日に配信された「【佐高×早野のジジ放談】不敵のジャーナリスト筑紫哲也」である。これがすこぶる面白い。

 佐高とは辛口経済評論家の佐高信さん(78)、早野とは元朝日新聞のコラムニスト・早野透さん(1945~2022)だ。筑紫さんの人生と関わってきた慧眼の持ち主の2人だからこそ、等身大の筑紫さんが語られている。

 早野さんは、同僚と群れず、ひょうひょうとしていた筑紫さんことを覚えていた。

「地方勤務を終え、東京政治部にあがり、総理官邸担当となったとき、官邸クラブは10人くらいの記者で構成されていた」

 と早野さん。新人なので末席。一日中、総理大臣の動向を追う総理番が最初の仕事だった。キャップはのちに朝日新聞社の社長になる松下宗之さん(1933~1999)。キャップから3番目から4番目くらいの位置にいたのが筑紫さんだが、クラブにはいつもいなかったという。

「潜り込んで秘密の取材をしているという訳でもない。でも、普通の政治記者とは違う感覚で永田町政治を見ていた」

 筑紫さんの担当は、田中派でも福田派でもなく、傍流の三木派だった。

 同僚と群れなかったのは、企業メディア、組織メディアの中でのジャーナリストの限界を突き破る闘いを、若いころから実践していたのかもしれない。

 佐高さんは、女性には相当モテた筑紫さんの一面を語っている。たしかに、イケメンだし、照れくさそうにはにかむ表情が女性の心をくすぐったのだろう。たばこを吸う姿も様になっていた。何か考えているような哲学者のようでもあった。

 早野さんも佐高さんも口をそろえて言うのは、筑紫さんは相当な麻雀好きだったこと。勝負師・筑紫哲也の一面が垣間見える。

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