【筑紫哲也の生き方】原点は「昭和10年生まれだからね」、知られざる政治記者時代…最後にテレビの世界を選んだ理由

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 ダンディな風貌と穏やかな語り口。晩年の活躍からキャスターのイメージが強いものの、そもそもは新聞記者。朝日新聞という巨大な組織に属しながらも自由を愛し、自立したジャーナリストとして世の中を見つめた筑紫哲也さん(1935~2008)。その後輩でもある朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが、様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は偉大な先輩でもあるジャーナリストの人生観に迫ります。

「君はこのままでいいのか」

 鋭い時代感覚を持った硬骨のジャーナリストではあったが、文学、映画、音楽への関心が深く、世のさまざまな事象にアンテナを張り巡らせていた。私は常々、後輩たちに「記者は森羅万象に多情多恨であれ」と説いているが、筑紫さんの好奇心の泉が枯れることはなかった。

 早稲田大学政経学部卒業後の1959年、朝日新聞社に入社。権力への監視を怠らず、多様な意見を尊重し、自由の気風を保ち続けた。とかく、右と言えば右、左と言えば左と同調することを美徳とする日本の組織において、少数派であることを恐れなかった。

 別に私は筑紫さんを絶賛するため、このコラムを書いているわけではない。自戒を込めて筑紫さんの足跡を振り返るに、

「君はこのままでいいのか。言うべきことを言っているのか。伝えるべきことを伝えているのか」

 と、鋭い声が突き刺さるのである。

 硬派で難解な政治論文ばかりで部数が低迷していた週刊誌「朝日ジャーナル」の編集長に筑紫さんが就任したのは84年だった。ニューアカデミズムなどの学問やサブカルチャーを盛り込んだのは、筑紫さんの柔軟な精神の現れだ。若者たちが支持する人物や人気者へ編集長が自らインタビューする「若者たちの神々」や「新人類の旗手たち」などの新企画を立ち上げ、雑誌というメディアの新しい可能性を開花させた。

 私が朝日新聞社に入社したのは88年。当初は地方勤務だったためジャーナル編集部の現場は直接知らないが、筑紫さんと対談した作家の林真理子さん(69)は、

「時代の寵児として、物事を鋭く斬っていく。怖い感じもした。でも、海の物とも山の物ともつかない私をサブカルチャーの一員として認めてくれた」

 演出家の鴻上尚史さん(65)は、

「20代半ばの僕を取り上げてくれて以来、一度も欠かすことなく芝居を見に来てくれた」

 それぞれ筑紫さんの訃報に対し、こんなことを述べている(朝日新聞・2008年11月8日朝刊・社会面)。

 ジャーナルで働いていた先輩たちは、平和や平等に強い意識を持ち続け、筆をふるった人が多かった。筋金入りの自由な個人、筑紫哲也さんのもとで働けたことは本当に幸せだったに違いない。

 それにしても、どうして筑紫さんは、自由を掲げつつも内情は人間関係や学閥、派閥を優先しがちな報道の世界で生き延びることができたのだろう。多数派の論理だけを優先し、上司をヨイショするヒラメ記者が多い中で、自由な気風を保つことは実は至難の業なのである。

「あなたの反骨精神の源は?」

 と私の先輩がインタビューしたとき、筑紫さんの答えは簡単だった。

「昭和10年生まれだからね」

 その答えが、疑問を解く鍵になるに違いない。

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