師匠からは「チャド、今日は負けてもしょうがないよ」 曙にとって“特別な相撲”になった一番とは

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「僕ら3人には『使命』みたいなものがあった」

 それから三場所後、幕内に昇進した曙は、快進撃を見せる。平成2年九州場所から、三場所連続して三賞を受賞。若貴兄弟との対戦は、毎場所のように組まれた。

 ストイックな日本人兄弟力士とハワイの怪人。

 いつの頃からか、世間は同期生の3人をこうした図式で見るようなっていた。言ってみれば、曙は若貴に立ちふさがるヒール役。曙にとっては損な役回りだったが、本人はそんなことを気にする余裕はなかったと言う。

「とにかく、毎日が相撲に夢中でした。自分の出番より前に、若貴が出てきて勝つと、『自分も負けられない』って気持ちになるんです。それと、ずっと表立っては言えなかったけれど、僕ら3人には『使命』みたいなものがあったんです。普通の力士なら、八番勝 ち越しで合格点ですが、僕らはそれじゃあ許されないという空気があった。周囲の期待がものすごいし、それに応えようという僕らがいた。で、それに応えてもなお、満足できない僕らがいたんです」

 平成3年、若貴兄弟、曙の活躍で、日本は空前の相撲ブームに沸いていた。彼らをひと目見たいという人々が、国技館に足を運び、毎場所、満員御礼が続く。

 そして夏場所初日には、貴花田が横綱・千代の富士を破り、引退に追い込むという、歴史的な出来事も起こった。父・貴ノ花から時代を受け継いだ千代の富士が、息子・貴花田に時代を託す。この世代交代によって、若貴曙、3人の時代がやってきたのである。

外国人力士初の横綱として

 平成4年初場所、貴花田が平幕で初優勝。それに負けじと、夏場所では関脇・曙が初優勝を果たし、貴花田より先に大関に昇進。「若貴には負けたくない」という一心で猛稽古に励んできた曙が、彼らをリードした瞬間だった。

 勢いは続いた。九州場所、翌五年初場所と連続優勝を遂げた曙は、ついに横綱に昇進。師匠・高見山、先輩の小錦も実現できなかった外国人力士初の横綱の誕生だった。

 一方で、若貴兄弟は足踏みを続けていた。貴花田は何度かの昇進見送りののち、平成5年春場所に大関に昇進したものの、横綱への道はなかなか開けない。

 その間、曙は一人横綱として、着々と優勝回数を重ねていった。けれども、平成6年夏場所、ヒザの負傷により、途中休場。翌名古屋場所、秋場所は全休となり、一転、引退のピンチに追い込まれる。

「一人横綱というのは、想像以上に厳しいものです。近年では、朝青龍、白鵬が長く一人横綱を張りましたが、横綱の責任は、1日で も横綱を務めてみないとわからないものなのです。この時の二場所連続休場は、横綱として責任を問われるべきことでしたしね」

 幸い、ヒザの損傷が癒えたことに加えて、平成7年初場所には、貴乃花(貴花田→貴ノ花から改名)が新横綱に昇進。曙の一人横綱は2年弱で解消された。

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