師匠からは「チャド、今日は負けてもしょうがないよ」 曙にとって“特別な相撲”になった一番とは

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 昭和の終わりから火が付き、平成に入って本格化した相撲ブーム。若貴兄弟の人気もさることながら、そこに立ちはだかるライバルとして輝きを放った存在が、外国人力士初の横綱となった曙だ。“ヒール役”外国人力士の先駆けといえる存在だが、当の曙自身は「そんなことを気にする暇がない」ほど相撲に集中していたという。当時の若貴と一緒に感じていた「使命のようなもの」とは?※双葉社「小説推理」2012年4月号掲載 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を再編集

若貴兄弟に対する激しい闘志

 昭和63年春場所、相撲界は新しい期待感に満ち溢れていた。

 名大関・貴ノ花の引退から7年。その息子で、高校を中退した長男・勝と、中学卒業を控えた次男・光司が同時に、父が師匠である藤島部屋に入門するというのだ。

 メディアは、一斉に2人の新弟子を追いかけ始めた。若花田、貴花田の兄弟は、日本中の注目を集めながら、切磋琢磨している。そんな彼らの姿を、眼光鋭く見つめる青年がいた。同期生でハワイからやってきた曙(当時=大海)である。身長2メートル超。手足が長く、相撲向きとは言えないヒョロリとした体型だ。

「なんで、あの2人ばかりが騒がれるんだろう?」

 当時の曙にその理由は計り知れなかったが、若貴兄弟が騒がれれば騒がれるほど、闘志が湧いてきた。

「クソ~、俺だっているんだぞ!」

 この3人がのちに横綱に昇りつめると、この時、誰が予想しただろうか?

経営学を学んでホテルマンになるはずが

 曙ことチャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン(通称・チャド)は、ハワイ・オアフ島で少年時代を過ごした。タクシー運転手の父は、チャドら3人兄弟を伸び伸びと育てた。

 ハイスクールに進む頃には、身長が2メートル近くになっていたチャドは、バスケットボールで頭角を現し始める。その後、バスケの才能を買われて、ハワイ・パシフィック大学に進んだものの、コーチと意見が対立。結局、3カ月で大学を退学することになってしまった。

 チャドの夢は大学で経営学を勉強して、ホテルマンになることだった。しかし、その夢が断たれてしまった。途方に暮れるチャドの脳裏に浮かんだのは、日本のSUMOで活躍する小錦の姿だった。というのも、高校生の頃、弟のジョージと共に、「力士にならないか?」とスカウトされたことがあったからだ。

 あの時は、大学進学を理由に断ったが、今のチャドにとって、日本行きは魅力的に映った。また、幼なじみの友人が2人、ハワイ出身の元高見山が開いた東関部屋に入門しているという気安さもあった。

「一丁、やってみるか!」

 昭和63年2月、チャドは意欲満々、多少の自信と共に、東京の東関部屋にやってきたのだった。

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