「地震で2度店を失った」「妻は孫の進路の話を楽しみにしていた」 能登半島地震、被災者たちの悲痛な叫び

国内 社会

  • ブックマーク

立て直した店が今回の地震で再び…

 朝市通りの近くで夫の正英さん(76)と共に輪島塗の店を開いていた塩士純永さん(67)は、数奇な運命に見舞われたという他ない。輪島市で震度6強を記録した2007年3月の地震で店や蔵が壊れてしまい、08年に建て直した店を今回の地震で再び失ったのだ。

「お店は無くなってしまったのですが、地震が起こった時、不幸中の幸いで私たち夫婦は病院にいました。地震が起こる前に主人がめまいや吐き気を催してしまい、輪島病院でCTスキャンやMRI検査を受けた直後に地震が来たのです」

 純永さんはそう語る。

「揺れが激しくて主人はストレッチャーから落ちてしまいました。幸いケガはありませんでしたが、その後は病院も停電してしまって処置どころではなくなったので、車の中で待機していました。その時に親しくしているお店の向かいの方からの電話で火災のことを知りました。どんどん火が広がっていく様子を電話で聞き、“なんで消火できないのかねぇ”と主人と言いあっていました」

「自分の子供のようなお店だったので…」

 店に足を運んだのは翌日になってからだった。

「土台を残して建物は焼け落ちてしまっていて、現実味がありませんでした。07年の地震で店が全壊して、何とか翌年必死になって再建して、その様子が新聞に載った時は涙が出ました。店の床も漆塗りにするなど、本当に手をかけた、自分の子供のようなお店だったのでショックが大きいです。再建するためにした借金もまだ2700万円ほど残っており、辛いです」

 純永さんの仕事関係の知人の中にも、今回の地震で命を落とした人がいる。

「今朝(7日)も仕事関係の方のお参りで、遺体の安置所になっている旧上野台(うわのだい)中学校に行ってきました。体育館にブルーシートが敷かれて、その上にご遺体が入ったお棺が置かれていました。今朝行った時は20棺くらいありました」

 1995年以降の地震としてはすでに東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ直接死の数を記録している能登半島地震。その被害の全貌はいまだ見えない。

週刊新潮 2024年1月18日号掲載

特集「孤絶『震源地』 徹底取材『能登大地震』の“生と死”」より

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[5/5ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。