「地震で2度店を失った」「妻は孫の進路の話を楽しみにしていた」 能登半島地震、被災者たちの悲痛な叫び

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立ち尽くす親子

 則貞さんや頼光さん一家が避難している大谷小中学校の校舎の2階に上がると、学校の裏手に海岸が見える。そこに広がるのは、海底が隆起して海岸線が後退してしまった、普段とは一変した浜の光景だった。

 大谷地区では津波の被害はほとんどなかったとみられる。一方、珠洲市の内浦側にある飯田湾岸沿いの集落には、津波の爪痕がはっきりと見て取れた。家のほとんどが全壊しており、1階部分に津波が浸入した跡が残されていた。

 地震の数日後、海岸沿いにある崩れた家の前で、若い母親とその息子の親子らしき二人が立ち尽くしていた。声をかけても、言葉は返ってこない。ただひたすら、つぶれた家を見つめ続けるのだった。

 呆然とするしかない残酷な運命。多くの死者が出た輪島市の一画でも、一人の男性が沈痛な面持ちでがれきの上に腰かけ、タバコを吸いながら目の前にある残骸を見つめていた。地震前、そこには彼が営んでいた居酒屋の建物が立っていた。近隣住民によると、家族が店舗にいて助からなかったという。

 居酒屋があった場所から海の方に5分ほど歩くと、ところどころから白い煙が立ち上り、焦げ臭いにおいが鼻をつく、広大な焼け野原に出る。かつてそこに存在した輪島市の観光名所、輪島朝市は地震の後の大規模火災で、活気があった以前の姿を想像できないほど徹底的に焼き尽くされていた。

「すぐに戻ればカネも回収できたのになあ」

 朝市通り近くの釣具屋「塩木商店」の店主は、鉄骨だけになった自宅兼店舗を指さしながら、

「これがウチ。家に売上金とかもあったけど、全部燃えて一文無しさ。車ももう廃車だな」

 地震の後、すぐに妻と共に自宅を飛び出し、近くの「ふれあい健康センター」に避難した。

「最初の揺れはこんなもんかと思ったけど、2回目の揺れは言葉にできないくらいひどかった。店内の棚は全部倒れて、自分も1メートルはふっ飛んだ。センターに逃げて日没を迎えた後、ウチのすぐ近くから火柱が立ったのが見えた。その後、海からの風で内陸側に延焼し、ウチも巻き込まれたろうな、と思った」

 店主がそう述懐する。

「その時点で諦めて、もう見るのも嫌になった。その後、風向きが変わったのか、今度は海側に延焼して、一面火の海になってしまった。センターに逃げた後、パッとすぐに戻れば金も回収できたのになぁ。チクショウ、失敗した。みんな家に戻っていろいろと取って避難所に帰ってくるんだけど、ウチなんてなんにもないよ」

 失われた「存在」は他にもある。朝市に夫の会社があったという20代女性は、

「夫の会社で猫を3匹飼っていました。朝市にいた他の猫たちも全て消息が分からないそうです」

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