「地震で2度店を失った」「妻は孫の進路の話を楽しみにしていた」 能登半島地震、被災者たちの悲痛な叫び
「家がぐちゃぐちゃにつぶれていてダメだった」
妻のあき子さん(80)は1階の居間の辺りにいたと思われるが、
「妻の方を見たり助けたりする暇もない。俺のところにも廊下の天井が落ちてきて、1畳もないスペースに閉じ込められた。押しつぶされそうになりながらも、前から迫ってくる壁を両足で押さえて、何とか空間を作った。もう死ぬかと思った。揺れが収まってから外に這い出ると、家の1階部分は完全につぶれていて、天井の上に出てきたような感じだった」
何としてでもあき子さんを助け出さなければ――。則貞さんはそれだけを考えていた。
「2階の屋根の上に登って、建築の仕事で使っていた丸ノコやチェーンソーを使って妻を助けようとした。でも家がぐちゃぐちゃにつぶれていて、とてもじゃないけどダメだった。居間の辺りまで入っていけない。親の代までは旅館だった。先祖代々の古い建物で、それなりに大きい。消防隊の分隊が声かけもしてくれたけど、返事がなかった」
地震の2日後、現場で捜索活動にあたる自衛隊に、妻がいたと思われる場所を伝えた。
「崩れた家の2階部分に穴を開けて下に掘り進めてくれて、午後2時半ごろに見つかったと連絡を受けた」
それからさらに2日が過ぎた5日の時点でも、
「遺体は公民館に安置してある。早いこと火葬に連れて行ってもらわにゃ。でも検視する人もまだ来とらんみたい。携帯もつながらないから、子供たちともなかなか連絡が取れんしな」
「家で妻の遺品を掘り起こし…」
あき子さんは子供や孫たちが来るのを心待ちにしていたという。
「俺が23、向こうが21の時に結婚して……こんなふうになるとは思わなかった。孫は就職したり、大学院に行ったり。そんな進路の話を聞くのをずいぶん楽しみにしていた。妻は和太鼓が趣味で、地域のお祭りでもよくたたいて周りを楽しませていた。かわいそうなことになった。今も家に帰れる時は帰って、妻の遺品を掘り起こしている。アルバムとか、妻が保育士をしていた時の服とか……」
「夫と母が1畳ほどのスペースに閉じ込められ…」
同じ大谷地区に暮らす頼光孝一さん(78)、ふみえさん(75)夫妻も地震の際は家にいた。
「私と夫と、99歳の母の三人で過ごしていました。母はデイサービスから帰ってきたばかりでした」
ふみえさんはそう話す。
「今年は息子も帰ってこないみたいだし、少し早くご飯にして寝ようと、夕飯の用意に取りかかり始めた。三人とも前日の夜、年越しまで頑張って起きていたので眠かったんですね。私は台所に、母と夫は1階の居間にいました。最初の揺れがガンと起こり、夫が神棚から落ちた榊立を掃除しようとした時、さらに強い揺れが襲いました」
地震によって家全体が傾き、1階部分がつぶれだした。
「私は台所から廊下に戻っており、そこに這いつくばることしかできませんでした。居間では梁が1本外れて落ちてきて、幸いにもそれが冷蔵庫に引っかかり、梁と冷蔵庫の間の1畳ほどのスペースに、夫と母が閉じ込められました。母は戸棚か何かに足を挟まれ、脱出が難しかった。“救急車呼んでくれ!”と母が叫んでいましたが、私は“こんな時に呼んでも来おへんわ”って」
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