「地震で2度店を失った」「妻は孫の進路の話を楽しみにしていた」 能登半島地震、被災者たちの悲痛な叫び
発生から124時間ぶりの「奇跡の救出劇」がある一方、正月に帰省で集まっていた家族10人以上が生き埋めになる悲劇も――。すさまじい爪痕が明らかになった「能登半島地震」。孤絶した震源地での徹底取材により被災者たちの生の声を紹介する。
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石川県北部に壊滅的な被害をもたらした「令和6年能登半島地震」。1月1日の発生から7日が経過した8日時点で県内の死者数がもっとも多いのが70人の輪島市、そして珠洲(すず)市である。能登半島の先端に位置し、今回の地震の震源地でもある珠洲市。その中でも外浦(そとうら)、つまり日本海外洋に面した小さな集落が大谷(おおたに)地区だ。そこまでたどり着くには、本来なら輪島市から海沿いに行く道など、いくつかのルートが存在する。しかし、5日の段階では土砂崩れで道路が寸断され、内浦(うちうら)側にある珠洲市街から山道を抜けていくルートしか残されていなかった。
「“もうダメやな”と思った瞬間、1階が…」
大谷の集落に入ると、そこに広がっていたのは古い木造家屋のほとんどが全壊したり、土砂崩れに巻き込まれている絶望的な光景であった。その一画にある則貞武夫さん(82)の家も、1階部分がひしゃげた無残な姿をさらしていた。
「地震が起こる前は妻と二人で『ニューイヤー駅伝』の感想を言いあい、のんびり過ごしていた」
と、則貞さんが語る。
「市内の飯田町にいる息子の奥さんの誕生日が2日でね。毎年2日にみんなで帰省してきて、お祝いをする。今年も息子夫婦と孫2人、金沢の娘夫婦と孫2人、全部で8人が来る予定だった。冷蔵庫にはオードブルや刺身が用意してあって、あとはみんなが着くのを待つだけだった」
最初の地震の揺れが襲ったのはそんな時だった。
「俺だけ立ち上がって庭の様子を見ようと玄関に向かった時に、さらに強い揺れが起こった」
1日午後4時6分ごろと10分ごろに起こった2回の地震の震源はいずれも珠洲市内。1回目の地震の最大震度は5強(M5.7)、2回目は7(M7.6)だった。
「とっさに立って玄関横の柱につかまったけれど、その柱が円を描くようにグラグラ揺れていた。俺は建築の仕事をしていたから、ああ、これはもたないとすぐに分かった。もうダメやな、と。その瞬間、1階がつぶれた」
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