歴代天皇が「1000年以上訪れなかった伊勢神宮」の謎 アマテラスの正体とは?

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 能登半島地震への対応で今年は延期になってしまったが、首相が年頭に伊勢神宮を参拝するのは恒例となっている。

 言うまでもないことだが、伊勢神宮の祭神は天照大神(アマテラス)であり皇室の祖先である。

 歴史作家の関裕二氏は近著『スサノヲの正体』(新潮新書)の中で、皇祖神アマテラスとその弟であるスサノヲにまつわる数々の謎に挑んでいる。

 なぜ天皇家の祖神アマテラスは、実在の初代王と言われる崇神天皇によって、伊勢に追いやられたのか。

 歴代天皇は明治になるまで千年以上もの間、アマテラスを祀る伊勢神宮を訪れなかったのはなぜか。

 こうしたことの背後には、朝廷の権力を独占してきた藤原氏の暗躍がある、というのが「関史観」である。そして関氏は、そもそも伊勢神宮に祀られているのはアマテラスではないのではないか、という大胆な仮説を提唱する。同書から抜粋してみよう。

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持統天皇の伊勢行幸に反対した三輪氏

 持統6年(692)2月11日、持統天皇は諸官に詔し、3月3日に伊勢に行幸すること、その準備をするようにと命じている。すると同月19日、中納言の三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)は、行幸は農事の妨げになると諫めた。また3月3日に、高市麻呂は衣冠を脱いで天皇にささげ、重ねて諫言したが、聞き入れられなかった。3月6日、天皇は諫言を無視し、行幸を強行してしまった。三輪氏は、大物主神の末裔で、祟る大物主神を大神神社で祀ってきた家系である。なぜ、職を賭して持統天皇を押し止めようとしたのだろうか。

『日本書紀』に従えば、伊勢神宮の整備は第11代垂仁天皇の時代にまでさかのぼる。しかし古い時代の伊勢神宮の痕跡は、今のところ確かめられていない。つまり、持統天皇が伊勢神宮を整えようとして、三輪朝臣高市麻呂が反発した可能性が出てくる。大物主神の末裔の三輪氏が抵抗したところが重要だと思う。伊勢神宮に祀られているのは、本当に女神・アマテラスなのだろうか。その正体は、大物主神なのではあるまいか。

 崇神天皇はほぼ同時に、大物主神の祟りとアマテラスの神威に脅えた。大物主神は日本海の神で、崇神は吉備系の王なのだから(母と祖母が物部)、崇神が大物主神の恨みを恐れた理由はわかる。しかし、アマテラスが天皇家の祖神なら、なぜ王自身が「ともに暮らせないほど恐ろしい」と感じたのだろう。

 伊勢外宮で語られ三輪にもたらされた「伊勢と三輪は一体分身」の伝承を組み合わせれば、ヤマト政権が恐れた神は『日本書紀』の言うアマテラスではなく、日本海(『日本書紀』神話の出雲)の大物主神だったのではないかと思えてくる。そして、ヤマト政権が祀っていた大物主神は、7世紀に持統天皇によって伊勢に遷し祀られたのではなかったか。だからこそ、大物主神の末裔の三輪朝臣高市麻呂は、必死に抵抗したのだろう。

持統天皇のあと明治天皇まで誰も訪れず

 持統天皇が伊勢神宮を整備したあと明治天皇が参拝するまで、歴代天皇はどなたも伊勢神宮を参拝されていない。

 伊勢の町では今でも、正月の門飾りに「蘇民将来子孫家門(蘇民符)」を掲げ、一年間かけ続ける。『備後国風土記』逸文に登場した「蘇民将来説話(スサノヲが恐ろしい疫神だった物語)」が、伊勢でも語られていたのだ。これは、はたして偶然なのだろうか。伊勢の神は、実は祟る恐ろしい疫神・スサノヲではなかったか。

 第10代崇神天皇が「宮中で共に暮らすことはできない」と追いだした神は、伊勢に向かったが、この神こそ、三輪(纏向でもある)の大物主神であり、スサノヲではなかったか。そして、恐ろしい祟り神だったからこそ、歴代天皇は、伊勢を避けたのだろう。ただの祟る神ではない。天智系の王家が藤原氏のそそのかしに乗り、正体を抹殺した上で伊勢に封印してしまった祖神である。天皇家自身にとっても神に対しやましい気持が残っていたのだろう。

なぜ山部親王は伊勢にすがったのか

 ただ、皇太子時代の桓武(かんむ)天皇(山部親王、やまべしんのう)は、体調不良を案じ、伊勢神宮に詣でている。なぜ、健康問題と伊勢神宮がつながったのだろう。

 桓武天皇は順調に皇位継承候補になったわけではない。本当の皇太子を死に追いやって、権利を獲得している。

 父・光仁(こうにん)天皇の正妃は井上内親王(いかみないしんのう)で、二人の間の子が他戸親王(おさべしんのう)だった。光仁は天智系で、天武系の称徳(しょうとく)天皇の崩御を受けて、即位した。この時、皇位をめぐって天武系と天智系はもめたが、天武系の井上内親王を皇后に、その子の他戸親王を皇太子に立てることで、親天武派を説得し丸く収めたのだろう。ところが、井上内親王が光仁天皇を呪詛したという理由で、母子は幽閉されてしまったのだ。これを受けて、山部親王が皇太子に立てられた。しばらくして、母子は幽閉先で同じ日に同じ場所で亡くなってしまった。密殺されたのだろう。邪魔者は皇族でもワナにはめて抹殺するのが、藤原政権の手口である(ワナと言うよりもでっちあげだが)。

 いわゆる「御霊信仰(祟り封じ)」は、井上内親王と他戸親王の事件がきっかけだったと考えられている。山部親王は他戸親王が死ななければ皇太子になれなかったのだから、やましい気持があったのだろう。井上内親王と他戸親王の祟りが体調不良の原因と信じ、あわてて、伊勢の神にすがったわけである。

 問題は、なぜ祟り封じのために伊勢の神を選んだのかだ。山部親王は自らの行動によって、「伊勢の神は病をもたらす恐ろしい祟り神」であることを証明してしまったわけである。

藤原不比等が神を入れ替えた?

 本来なら、天皇家の守神にもなったであろう「伊勢の神」を、恐ろしい存在にしてしまったのは、持統天皇と藤原不比等だと思う。祟り神でも、祀りあげれば、恵みをもたらす神に代わるはずだからだ。しかしそれを怠り、伊勢に放逐したわけだ。それはどうしてなのか。

 答えは簡単なことだ。スサノヲは天皇家にとって大切な神だったが、もうひとつ「蘇我系の神」の側面があった。乙巳(いっし)の変(645)で蘇我入鹿を滅ぼし、藤原氏は改革者・蘇我氏の手柄を横取りし、スサノヲに簑笠を着せて「悪神」に仕立て上げてしまった。そこで藤原不比等はスサノヲをアマテラスにすり替え、その上で伊勢に封印してしまったのだろう。

※本記事は、『スサノヲの正体』(新潮新書)の一部を抜粋、再編集したものです。

関裕二(せき・ゆうじ)
1959(昭和34)年、千葉県柏市生まれ。歴史作家、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅了されて奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『神武天皇vs.卑弥呼』『古代史の正体』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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