「すぐそばにミサイルが直撃」「一度泣いたら涙が止まらない」 ガザの日本人看護師が証言する“死の恐怖”
“後悔せんように”と家族にメール
どうにかたどり着いた新たな宿舎も、わずか数日で退避を余儀なくされた。
「外出は禁止なので、ここでも鉄扉を締め切って閉じこもりました。空爆は早朝4時ごろと午後10時ごろが激しい印象で、“バーン!”“バキバキッ!”と、時には“隣近所に着弾したんちゃうか?”って思うくらい大きな音がしました。そのたびに窓や家具が大きく揺れました」
川瀬氏は初めて、リアルな生命の危機と向き合った。
「いつ何が起きてもおかしくない状況。ここが爆撃されたら助からへんなって。“このまま寝て、明日の朝は起きれるんかな。爆撃を受けたら目覚めへんのかな”と思ったり。だから“後悔せんように”と家族にメールも送りました。ただ、そんな生活にも慣れて、驚くくらいグッスリと寝られる日もあったんです。疲れ切っていたんでしょうね」
“自分にもできることがあるんや”
戦闘開始から6日後の13日、イスラエル軍は北部での全面攻撃を宣言。川瀬氏らは南部へ車を走らせた。
「着いた先はエジプトとの国境に近いラファにある、広大な土地に立つ国連の倉庫。ほどなく数万人もの避難民が集まり、敷地はテントで埋め尽くされました」
倉庫に医療設備はなかったが、国際赤十字の存在を知ると、多くの避難民が川瀬氏らのもとを訪れてきた。
「限られた医療資機材で、私は避難民の健康管理を担当しました。赤ちゃんの発疹や風邪の症状、やけど、骨折など。中には手術を受けて入院していた北部の病院から、ご家族と車椅子でやって来たという方や、ストレスによるパニック発作で運ばれてきた若い女性も。毎日が必死でしたが、患者さんと向き合っていると“自分にもできることがあるんや”って思えた。それが自分の心の安定につながったと思います」
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