「俺、社長なんだけど…」 スマホを落としただけで「自分が自分である」証明ができなくなる問題(古市憲寿)

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 ある大企業の社長に起こった話。いつも移動用に使っている運転手付きの車があるのだが、目的地に到着し、降車する際に、スマートフォンを車内に置き忘れてきてしまった。気が付いた時にはすでに車は離れていた。運転手を呼び戻そうにも連絡先はスマートフォンの中。会社関係で覚えている電話番号はない。

 近くにいた人に検索してもらい、何とか会社の代表番号は知ることができた。電話も借りて、いざその番号にかける。だが大変だったのはそこからだった。何せ公開されている番号なので、社長という肩書きや自分の名前を言っても信じてもらえないのだ。

 いくら「俺、社長なんだけど」と言っても、客観的にはオレオレ詐欺と似た状態である。しかも会社の性質上、一般顧客からの問い合わせもたくさんある。実際、社長やその親族をかたった迷惑電話も多いのだという。そのため簡単には社員に取り次がないといったマニュアルがあるようなのだ。

 結局、その社長は自分の会社に電話したにもかかわらず、運転手や社長室に連絡を取ることはおろか、「そういったことには対応しておりません」と電話を切られてしまった。仕方がないのでタクシーに乗って自宅まで戻り、パソコンから社員に連絡を取り、事なきを得たという。

 まだ財布や鍵を持っていたからよかったが、それも車の中だったら、より事態は複雑になっていただろう。会社まで歩いて行って、ゲートの前で「俺、社長なんだけど」と警備員を困らせていたかもしれない。大企業なので全スタッフが社長の顔を知っているとは限らないのだ。

 確かに自分を自分だと証明するのは難しい。本当に見知った関係であれば顔を見れば済む話だが、少し遠い関係だとややこしくなる。オフラインなら運転免許証や社員証などのIDカード、オンラインならスマートフォンでの顔認証やSMS認証が代表的な手段だろうか。だがIDカードもスマートフォンも持たない手ぶらの人間が「私は私」と言っても、説得力に欠ける。

 ちょうど今が過渡期なのかもしれない。全てが顔認証や静脈認証で済む時代が訪れれば、カードやスマホを持ち歩く必要もなくなる。アメリカのホールフーズというスーパーでは、「手のひら決済」が始まっている。現地のアマゾンアカウントが必要だが、一度登録すれば手のひらをかざすだけで決済ができるのだ。中国でも手のひら決済が普及しつつあるといい、そのうち手ぶらで出かけても何とかなる時代が来るのだろう。

 一方、日本ではこんなニュースも。偽の議員バッジを胸元につけたスーツ姿の男が、外務省や厚労省、更には警視庁に侵入していたというのだ。男があまりにも堂々としていたのか、警備員が政治家と勘違いしてゲートを開けてしまったのだろう。昭和時代ではなく2022年の出来事だ。

 この社会には、まだまだ未来と過去が混在している。当面の間は、スマホだけは忘れないようにしたい。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2024年1月4・11日号掲載

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