樋口可南子も宮沢りえも…篠山紀信さんの写真に一切の作風が生じなかったのはなぜか
時代に伴走しすべてを「記録」した
人物撮影の印象は強いものの、篠山写真の被写体は人だけに留まらなかった。舞台写真や建築、東京をはじめとする街そのもの、ニュースの現場、流行の事象……。文字通り森羅万象を写した。
写真に自己表現・自己実現を持ち込まないゆえ、すべてを等価に眺め、何でも撮ることができたのだ。
「時代はいつだって何かしら生むものです。何もない時代なんて、ないんだから」
と本人が言っていた通り、撮るべきものはいつも眼前に現れた。それで半世紀以上も、間断なく撮り続けることができた。時代にスランプなんてないのと同じく、篠山紀信にもスランプはなかった。
篠山紀信と写真の密着ぶりを見れば、これぞまさに天職というものかという気がしてくる。両者の出逢いと変遷をごく簡便にたどるとこうだ。
1940年に東京で生まれた篠山紀信が、写真と真剣に向き合うようになったのは大学時代から。受験で第一志望校に落ちてしまい、他の進路を探していたところ、新聞で日本大学芸術学部写真学科の学生募集広告を見つけた。「これから写真は職業としていいかもしれない」と直観し、入学することに。
在学中に広告写真エージェンシー「ライトパブリシティ」に所属し商業写真を撮り始めるが、さらなる自由さを求めて雑誌の世界へ飛び込んだ。1960年代を通して「カメラ毎日」「話の特集」などで精力的に作品を発表したり、ヌードを撮ったり、リオのカーニバルに取材したりと、幅広い題材に取り組んだ。
話題の写真を撮り続けられる理由とコツ
70年代になると、エンターテインメントの方向へ関心がぐっと伸びる。「激写」との言葉をみずから創り、雑誌「明星」「GORO」などで歌手・アイドルらのグラビア写真や一般女性のヌードを発表。女性が無防備かつごく自然な表情を見せる写真には「隣のミヨちゃんが脱いだ!」との驚きに満ち、世の男性から圧倒的な支持を得る。
80年代はバブルの時勢に乗り、大判カメラを4台つなげた“シノラマ”なる撮影法を開発。浮き足立つ時代の空気を丸ごと写さんとした。90年代には女優・樋口可南子を撮った写真集『water fruit』により「ヘアヌード解禁」を主導。人気絶頂のアイドル宮沢りえのヘアヌード写真集『Santa Fe』が150万部超のミリオンセラーとなり話題をふりまく。
2000年代のデジタル時代にはいち早くデジタルカメラを手にし、インターネット上で作品が観られる“digi+ KISHIN”も開設。時の人、話題の事象を撮り続け、生涯現役の写真家人生をまっとうした。
以前篠山さんに、時代を超えて話題の写真を撮り続けられる理由とコツを尋ねたことがある。
「その時代のいちばんおもしろい人、モノ、事象のところにさっと寄って、いちばんいいところから撮れば、いい写真になるに決まってます。時代のいいところ取りをすればいいんですよ」
との答えだった。
時代とそこに生きる人を、丸ごと写真にし続けたのが篠山紀信さんだった。そんな「大いなる記録者」とともに生きることができた私たちは、幸せである。