樋口可南子も宮沢りえも…篠山紀信さんの写真に一切の作風が生じなかったのはなぜか

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篠山紀信に「作風」はない

 そうした本人の性向は、写真家・篠山紀信の作品特性に直結している。

 もっぱら相手のことを考えるとは、写真に則せば「被写体至上主義」とも言うべき作風につながる。篠山写真の他にない強みはまさにそこにある。

 写真家としての篠山紀信は、長いキャリアの中で膨大な老若男女を撮影してきたが、撮る際の心得はずっと同じで次のようなものだ。

 自分の撮り方やスタイルを相手に押し付けてはいけない。被写体が喜ぶように撮り、いいところを見つけて一瞬のうちに、そのよさを「いただく」のだと。

 つまりは被写体が「こう撮ってほしい」と願う姿を、そのまま撮ってあげるということ。それでこそ最良の写真が生まれると信じた。撮影者のエゴや表現欲求が混ざるとすべてがダメになる。

 自己の存在感を滅し、他者たる被写体の魅力を引き出すことに徹する。この極意を突き詰めるうち、驚くべきことが起こる。日本に暮らしていれば目にしたことのない人はいないと断言できるほど浸透しているというのに、篠山写真には一切の作風が生じなかったのだ。

 考えてみてほしい、篠山紀信の写真と聞いてわれわれが思い浮かべるのは何か? 被写体の姿かたちでしかない。たとえば、日本では1960年代辺りからアイドルおよびその肢体を写すグラビア写真が誕生し、現在に至るまで隆盛だ。このジャンル自体を築き上げた張本人は篠山紀信であり、もちろん数々の印象的な写真を残している。

 強い視線を観る側に注ぐ山口百恵、大自然の中で伸びやかに裸身を見せる宮沢りえ、手を取り合って集団で一斉に飛び跳ねるAKB48の面々……。例は続々と挙げられるが、いくら続けてもそれはアイドルの名前の羅列になってしまい、篠山紀信の写真の撮り方や構図、色合いなどには考えが行き着かない。

「篠山写真」の真骨頂とは

 それは当然で、篠山作品にはそもそもこれという特徴がない。強いて言えば、たいへんクリアな画面をつくり上げることくらいか。合わせるべきところへぴたりとピントがきており、皆が見たいと思うところをはっきりくっきり見せている。おそろしいまでに簡潔で明快な画面がいつもそこにあった。

 本人のキャラクターが強烈(それも多分に意図的な演出だっただろう)なので、撮る写真もアクが強いと錯覚しがちだが、そんなことはないのだ。写真画面に本人の「色」は滲み出ておらず、限りなく無色透明。その分、被写体の「色」がしっかり際立つ。そういう写真だからこそ、観る側としては存分に、被写体と親密な関わりを持ったり心を通わせたりできるのだった。

 このたび死去が報じられたあと、各方面の著名人が追悼の意とともに、「篠山さんに撮ってもらった自分」の写真をSNS等で公開する例が相次いだ。撮り手の死をきっかけに人目に触れることとなった写真の中の被写体はどれも、生き生きと輝いて見えたものだ。

「篠山写真」の真骨頂がそこにあった。

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