「俺が23、向こうが21の時に結婚して…こんなふうになるとは」 能登半島地震の震源地で愛妻を失った夫の慟哭
「妻と二人で『ニューイヤー駅伝』の感想を…」
1995年以降の地震としては、すでに東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ直接死の数を記録している能登半島地震。その被害の全貌は未だ見えず、最も甚大な被害を受けた震源地では、何もかもが崩れ去り、そこには絶望だけが残されていた――。
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1月1日の発生から7日が経過した8日時点で石川県内の死者数がもっとも多いのが70人の輪島市、そして珠洲市である。能登半島の先端に位置し、今回の地震の震源地でもある珠洲(すず)市。その中でも外浦(そとうら)、つまり日本海外洋に面したところに大谷(おおたに)地区はある。その小さな集落には、古い木造家屋のほとんどが全壊したり、土砂崩れに巻き込まれている、まさに絶望的な光景が広がっていた。則貞武夫さん(82)の家も、1階部分がひしゃげた無残な姿をさらしている。
「地震が起こる前は妻と二人で『ニューイヤー駅伝』の感想を言いあい、のんびり過ごしていた」
と、則貞さんが語る。
「市内の飯田町にいる息子の奥さんの誕生日が2日でね。毎年2日にみんなで帰省してきて、お祝いをする。今年も息子夫婦と孫2人、金沢の娘夫婦と孫2人、全部で8人が来る予定だった。冷蔵庫にはオードブルや刺身が用意してあって、あとはみんなが着くのを待つだけだった」
最初の地震の揺れが襲ったのはそんな時だった。
「俺だけ立ち上がって庭の様子を見ようと玄関に向かった時に、さらに強い揺れが起こった」
1日午後4時6分ごろと10分ごろに起こった2回の地震の震源はいずれも珠洲市内。1回目の地震の最大震度は5強(M5.7)、2回目は7(M7.6)だった。
「もうダメやな」
「とっさに立って玄関横の柱につかまったけれど、その柱が円を描くようにグラグラ揺れていた。俺は建築の仕事をしていたから、ああ、これはもたないとすぐに分かった。もうダメやな、と。その瞬間、1階が潰れた」
妻のあき子さん(80)は1階の居間の辺りにいたと思われるが、
「妻の方を見たり助けたりする暇もない。俺のところにも廊下の天井が落ちてきて、1畳もないスペースに閉じ込められた。押しつぶされそうになりながらも、前から迫ってくる壁を両足で押さえて、何とか空間を作った。もう死ぬかと思った。揺れが収まってから外に這い出ると、家の1階部分は完全に潰れていて、天井の上に出てきたような感じだった」
何としてでもあき子さんを助け出さなければ――。則貞さんはそれだけを考えていた。
「2階の屋根の上に登って、建築の仕事で使っていた丸ノコやチェーンソーを使って妻を助けようとした。でも家がぐちゃぐちゃに潰れていて、とてもじゃないけどダメだった。居間の辺りまで入っていけない。親の代までは旅館だった。先祖代々の古い建物で、それなりに大きい。消防隊の分隊が声かけもしてくれたけど、返事がなかった」
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