キラー・カーン 尾崎豊は常連客、忠実に守った母の教え…力士、プロレスラー、居酒屋経営者の優しき人生
飲食業はプロレスと同じ
1987年、カーンが引退を公表すると、当時、WWFで敵陣営だったハルク・ホーガンが隠れて控え室まで来て必死に翻意を促した。1990年には天龍源一郎が新団体(SWS)を発足させると、復帰へと声をかけられた。自身の引退理由は、87年初頭に起こったジャパンプロレスの分裂騒動を巡り、プロレス界の人間関係に嫌気がさしたというものだった。一度、出て行ったはずの新日本プロレスに、志を共にした仲間たちが出戻っていた。前出の母の教えからすれば、彼には許せないものだったのだろう。
その後は飲食業で成功した。プロレスを引退後、飲食店を経営しても長続きしない人が多いだけに、かつて成功の秘訣を聞いたことがある。答えは明快だった。
「初めて来てくれた客を、次も来させるには、どうすればいいかを考えて行動する。それが一番大事。プロレスと一緒ですよ、そういう意味では」
レスラー時代、大会場が主となるアメリカを主戦場にしていた頃、こう考えたという。
「技をやる際、とにかく大きな奇声を発するようにしよう」
技を受ける場合も同様で、気付けば自然と知名度は上がっていた。得意のダブル・ニードロップは、猪木のダイビング・ニードロップにインスパイアされたものだった。「両ヒザを落とせば、よりインパクトがある」と考えたという。もちろん熱心に練習し、両ひざをきれいに揃えた空中での姿勢の良さには、あのブルーザー・ブロディが「綺麗に見えるコツを教えてくれ」と聞きに来るほどだったという。
“幻のモスクワ五輪・アマレス金メダル最有力候補”として知られた谷津嘉章は、インタビューでこう語ってくれた。
「僕にプロレスの師匠がいるとすれば、カーンさん。最初に、“お前の動きは早過ぎて、お客が置いてきぼりになってる”と教えてくれたんです。“もっと、1、2の3というテンポで動いていいんだよ。プロレスは、お客の気持ちとともに盛り上げて行くものだから”と言ってね」
料理も同様だった。幼い頃から母の料理を手伝っており、新日本プロレス時代も、自作のチャンコの味は絶品と言われていた。だが、引退後に開いた自らの店「カンちゃん」の開業は1989年2月。引退から約1年以上を要している。実は、その間、長野県の温泉街のスナックで、接客を含めた修行をしていたのだ。
「お客様に出すわけだから、素人の余技で済むわけがないからね」(カーン)
出される料理はもちろん美味で、一品の分量も膨大。「1人前は、(元プロレスラーの)俺が思う1人前だから(笑)」。筆者は最初の店や移転後も含め、「カンちゃん」には全てお邪魔しているが、来店客にその魅力を問うと、こんな答えが多かった。「この場所にしては、安くていい」。同店の変遷は、おおまかに言えば以下となる。
・1989年2月、中井駅に「スナック カンちゃん」オープン(地下1階)。
・1997年9月より、同店の1階に「チャンコ居酒屋 カンちゃん」を併設。
・2001年より、新宿・歌舞伎町のビルの5階に移転。翌年にはカラオケスナックも併設。
・2010年9月、綾瀬にも「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を開店(2012年閉店)。
・2013年1月、歌舞伎町から西新宿のビルの1階に移転。
・2016年、新大久保駅近くに移転(2021年5月閉店)。
・2023年3月より、西新宿に「カンちゃんの人情酒場」開店。
土地代も高額な場所で続けて来たことがわかる。お客についてカーンに聞くと、いつもこんな答えが返ってきた。
「俺は、若者やサラリーマンの味方でいたいんだよね」
2021年、今では韓国街として知られる、新大久保の店の閉店にあたり、その理由を知った時はショックだった。
〈(「カンちゃん」という)店名のせいもあり、韓国料理店と勘違いし、入店するお客さんも多い。(中略)この街に韓国料理を食べに来てるんだから、日本料理でやっていくのは大変〉(「東京スポーツ」2021年5月7日付)
(何なら、屋号を変えればいいのに……)と、何とも惜しい気持ちで読み進むと、同紙には、こんな見出しと記事も躍っていた。〈尾崎豊さんが愛したキラー・カーンの店閉店〉〈尾崎豊さんが愛したカレーライス〉……。
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