キラー・カーン 尾崎豊は常連客、忠実に守った母の教え…力士、プロレスラー、居酒屋経営者の優しき人生
とてつもなく優しい性格
相手の首元を両手で挟み打つ「モンゴリアン・チョップ」を得意技にしている新日本プロレスの天山広吉は、その日(1998年4月4日)、気をもんでいた。同技の創始者、キラー・カーン(本名・小澤正志)が会場に招待されていたのだ。彼が日本のプロレス会場に現れるのは、引退した1987年から数えると、実に11年ぶりのことだった。天山は意を決して、控え室まで行き、
「モンゴリアン・チョップ、使わしてもろうてます。ご挨拶が遅れまして……」
と言うと、
「挨拶に来なきゃいけないほど、難しい技じゃないじゃん! どんどん使ってよ!」
と、言われたという。そのキラー・カーンの訃報が昨年末、入った。12月29日、自ら経営する居酒屋で接客中に体調が急変。救急搬送されたが帰らぬ人となったのだ(死因は動脈破裂。享年76)。
【写真を見る】尾崎豊との2ショット、元気に店で働いていたカーンさん
「蒙古の怪人」の異名を持ち、その特徴的な辮髪と、後のスキンヘッド姿をご記憶の読者も多いだろう。奇声を発しながらのモンゴリアン・チョップや、「アルバトロス(“あほうどり”の意)殺法」とされる、コーナー最上段からのダイビング・ダブル・ニードロップはとにかく迫力満点だった。日本人離れした195センチ、140キロ(全盛時)の体格を武器に、ゴールデンタイム放送時の新日本プロレスのみならず、全米でも大暴れ。WWF(現WWE)のリングで、何度もメインエベントに登場し、同団体の世界ヘビー級王座の常連コンテンダーとして知られた。
そして、引退後は、浮き沈みの激しい水商売の世界で、飲食店を何と30年以上に渡り自営。どちらも、常人に出来る仕業ではない。その成功の極意はなんだったのか――。
先に触れた、久々のプロレス会場への訪問は、1998年4月4日の「アントニオ猪木引退試合」(東京ドーム)だった。引退する猪木をねぎらうためにリングに上がった瞬間、猛烈な違和感を覚えたことを、後年の取材時、明かしてくれた。
「マットが柔らかいんだよね。足が沈む感じで。俺が新日本プロレスでやってた頃は、もっともっと硬かった。あれは受け身を習得するには余り良くないんじゃないかなあ? 世界には色んな硬さのマットがあるし」
何度もマットに転がされ、プロレスを覚えた叩き上げならではの言葉だった。
カーンは1947年、新潟県生まれ。恵まれた体格を見込まれ、1963年、角界入り。期待されたが、後一歩というところで、十両に昇進出来なかった。とてつもなく優しい性格が水に合わなかったからだ。母子家庭で育ったカーンは母の教えを大切にしていた。
〈「人には絶対迷惑をかけるな」「人に嘘をつくな」「人を信用しろ」「人をイジめてはいけない」〉(『“蒙古の怪人”キラー・カーン自伝』より)
その日戦う相手力士と朝、偶然鉢合わせ、悩みを聞いている内に気の毒になり、わざと負けてやったこともあったという。
限界を感じ、角界に見切りをつけ1971年、プロレス入り。意外にもカール・ゴッチから気に入られ、存分にプロレスを習得した。相手の技を受けることも重要な要素であるプロレスは、一方的に相手を倒す相撲より、よほどカーンに合っていたようだ。
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