増位山 「そんな女のひとりごと」は130万枚の大ヒット…「相撲は副業?」と言われながら掴んだ“最初で最後のチャンス”

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「父子二代」「31歳2カ月」…異例の大関昇進

 昭和55年初場所は、彼にとって勝負の場所となった。初日、苦手の横綱輪島を外掛けで破ったのを皮切りに、快調に白星を重ねて、終わってみれば12勝3敗の好成績。

「私にとって、あれが最初で最後のチャンスでしたね」

 後日、増位山本人がそう振り返ったように、まさにワンチャンスをモノにして大関に昇進。「父子二代」に「31歳2カ月」という形容詞も加わった異例中の異例の大関昇進となった。

 ちなみに、琴光喜が「31歳3カ月」で大関に昇進(平成19年)するまで、増位山の「31歳2カ月」はスロー出世記録を保持していた。相撲年齢が延びている昨今と違って、力士の引退が30歳前後だった昭和の時代としては、まさに遅咲きの花だったと言えるだろう。

 また、大関昇進を意識し始めた頃から、体が徐々に大きくなりはじめた。昇進が決まった時には、116キロを記録。太もものあたりが肉割れをするほどになった。相手力士の突進を食い止めることができる体になったことも、大関昇進に拍車をかけた。

栃赤城に敗れた瞬間「もうだめだ。力が出ない」

 しかし、大関の地位では苦戦の連続だった。新大関の場所で、右ヒジの関節を捻挫するというアクシデントで途中休場。その後、負け越しも経験。

 昭和56年初場所途中で大関貴ノ花が引退。そして春場所2日目には、横綱輪島が引退。輪湖時代の主役たちの引退が続いた。

 一方、春場所前、稽古十分で臨んだ増位山は、初日から2連勝と好調な滑り出しを見せたものの、3日目琴風、4日目栃赤城の新鋭に立て続けに敗れてしまう。

「もうだめだ。力が出ない」

 栃赤城に敗れた瞬間、こう感じた増位山は引退を決意。大関在位は7場所で終わった。

 横綱大関の引退が相次いだ昭和56年、あらたなスターが誕生した。初場所、関脇で優勝した「ウルフ」千代の富士である。千代の富士は名古屋場所で横綱昇進を決め、新旧交代が色濃い年となった。

 時代は変わった。それでも増位山の同期生・北の湖は、昭和60年初場所まで大横綱の座を守り続けた。

武田葉月
ノンフィクションライター。山形県山形市出身、清泉女子大学文学部卒業。出版社勤務を経て、現職へ。大相撲、アマチュア相撲、世界相撲など、おもに相撲の世界を中心に取材、執筆中。著書に、『横綱』『ドルジ 横綱朝青龍の素顔』(以上、講談社)、『インタビュー ザ・大関』『寺尾常史』『大相撲 想い出の名力士』(以上、双葉社)などがある。

デイリー新潮編集部

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