増位山 「そんな女のひとりごと」は130万枚の大ヒット…「相撲は副業?」と言われながら掴んだ“最初で最後のチャンス”

スポーツ

  • ブックマーク

63年ぶりに父子揃っての幕内昇進

 二代目増位山は、快進撃を続けた。昭和45年春場所、新入幕。父子揃っての幕内昇進はじつに63年ぶりとあって、周囲の期待は高まるばかりだった。

 その後、親子力士は、井筒父子(鶴嶺山、逆鉾、寺尾の井筒三兄弟)、貴ノ花父子(若乃花、貴乃花の若貴兄弟)などが現れたことで、けっして珍しい存在ではなくなった。だが「父親が力士だったから」と入門する力士は多いが、父子揃って出世するケースは珍しいのだ。

 入幕を果たした増位山に訪れたのが、「幕内」という壁だった。

 突き押し相撲でならした父の大関増位山に対し、二代目は100キロそこそこの細い体で、まわしを取って内掛け、上手投げなどのさまざまな技を駆使する技能相撲。器用さが災いして、足首や胸などにケガを重ねてしまったことが、その後2年にわたって、幕内と十両を往復する原因となった。

 そんな増位山が幕内に定着するようになったのが、昭和47年の後半。九州場所では、前頭四枚目で大関大麒麟を下す活躍を見せ、初めての技能賞を受賞した。ようやく増位山の「技」が認められたのである。

 この時、5歳年下の北の湖は、前頭六枚目で10勝5敗。翌昭和48年初場所では、増位山と共に小結に昇進。19歳の若武者は、ここから一気に横綱へと駆け上っていく。

歌や絵画でも人気に…「相撲が副業」との陰口も

 さて、増位山は一進一退を繰り返していた。前頭上位で勝ち越して三役になると、負け越しというパターン。

 体のほうも相変わらず、100キロを少し超えるほどのスリムさ。ふわっとした立ち合いで相手の力をそらす独特の立ち合いは持ち味の一つだが、威力に欠けて、横綱大関クラスには通用しない。実際、学生相撲界から鳴り物入りで入門して横綱になった輪島には、まったくと言っていいほど歯が立たなかった。

 一方で、昭和49年に「そんな夕子にほれました」で歌手デビューを果たしてから、昭和53年には「そんな女のひとりごと」で日本有線大賞のベストヒット賞を受賞するなど、歌手活動も本格化する。また、趣味の絵画では、二科展で父子共々入選を果たし、相撲とは別の分野での活躍ぶりが目立つようになっていた。

「あいつは、相撲が副業なんじゃないの?」

 そんな陰口さえ聞かれるようになった増位山に、転機が訪れたのは30歳の時だった。小結で迎えた昭和54年秋場所、持ち前の技が冴え渡って技能賞を受賞。翌九州場所では、関脇で大関貴ノ花を破るなどの活躍で11勝。三役にさえ定着できなかった男が、突然大関獲りにリーチをかけたのである。

次ページ:「父子二代」「31歳2カ月」…異例の大関昇進

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。