増位山 「そんな女のひとりごと」は130万枚の大ヒット…「相撲は副業?」と言われながら掴んだ“最初で最後のチャンス”
朴訥としていながらも、どこか艶がある歌声。歌手としてステージに立った現役力士・増位山に、昭和のお茶の間は魅了された。一時は「相撲が副業」とまで言われたが、父子二代で大関昇進を果たした名力士だ。だが実は、父の三保ヶ関親方には入門を“お断り“されたという過去もあった。※双葉社「小説推理」2011年6月号 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を再編集
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「そんな女のひとりごと」は130万枚の大ヒット
カラオケボックスなどなかった、昭和50年代。
スナックの片隅で水割りを飲んでいると、有線で流れてくる歌謡曲。なにげなく口ずさんで、今日一日の疲れを癒す……。
昭和53年、現役力士の増位山太志郎がリリースした「そんな女のひとりごと」は、歌謡曲ブームに乗って130万枚の大ヒット。続く「男の背中」も、カラオケの定番として知られている名曲である。
甘いムードの曲調から、「力士」をイメージするのは難しい。しかし、歌手・増位山は、土俵上でも一流を貫いた。
増位山こと、澤田昇少年が育ったのは、父(三保ヶ関親方=元大関・増位山)が興した東京・墨田区の三保ヶ関部屋だった。幼い頃から力士と一緒に過ごしていたものの、相撲を取ることはなかったという。
小学生の頃から夢中になっていたのは、水泳。日大一中では水泳部に入部し、日々プールで体を鍛えていた昇だったが、けっして相僕が嫌いなわけではなかった。
「お父さん、僕、お相撲さんになるよ」
実際、中学卒業を目の前にして、昇は父に直訴している。ところが父は厳しく、
「おまえみたいな小さいヤツはダメだ!」
と、昇の希望を却下。仕方なく、日大一高に進んで水泳を続けることになった。
「栃錦が好きだから、春日野部屋に入門する」
高3になると、自由形で国体に出場するなどの活躍を見せたことから、大学へ推薦入学の話も出始めた。しかし、相撲部屋で生まれ育った血がそうさせるのだろうか。昇の目標あくまで力士になることだった。そこで、もう一度父に掛け合ってみることにした。
父の答えは、またしても「NO」。
「それなら、僕は栃錦が好きだから、春日野部屋に入門する」
昇は奥の手を出した。相撲部屋の息子が別の部屋に入門するという話は聞いたことがない。この発言に慌てた父は、昇の入門をしぶしぶ許すこととなった。
こうして、昭和42年初場所、昇は念願の初土俵を踏んだ。
奇しくも時を同じくして初土俵を踏んだのが、のちの大横綱・北の湖。しかし、当時の北の湖は北海道から出てきたばかりの13歳の中学1年生で、昇は18歳の高校3年生。同じ部屋の同期生と言っても、2人は大人と子供ほどの意識の差があった。
翌春場所、「澤田」という同姓の同期生がいたことから、昇は四股名を「水龍」と自分で付けた。水泳部出身ということから、「水」の字を入れたのだが、親方は「水の字は縁起が悪い」と反対。漢字を変えて「瑞龍」とした昇の出世は、きわめて順調だった。
昭和43年夏場所からは、父の四股名・増位山を名乗り、翌場所幕下に昇進。その後も大きな壁にぶつかることなく、入門から2年余りの昭和44年名古屋場所、新十両に昇進した。
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