外国人観光客から問い合わせ殺到「吉原遊廓ツアー」に同行ルポ ガイドの元アイドルが語る“大人気アニメの影響”と「私が吉原の観光案内を始めた理由」
遊女とインフルエンサー
五十間道の先に見えてきたのが吉原大門跡であり、その両脇には柱が立っていた。いまからは想像もつかないが、江戸時代には黒塗りの木造アーチの門構えだったという。
「大門周辺の通りには、客を案内する茶屋――いまで言う“風俗案内所”的な役割を果たした『引手茶屋』が並んでいました。さらに通りの左右には『貸座敷』があって、格式ごとに〈大見世〉〈中見世〉〈小見世〉の3種類に分けられ、3000~5000人の遊女が在籍していたと伝えられます」(渡辺さん)
吉原には遊女だけでなく、芸者もいたが、
「芸者たちは〈伝統芸能の担い手〉として修練を積み、“ここでしか見ることのできない”珍しい芸を披露していたといいます。実は吉原は“大人の遊び場”といった面だけでなく、〈文化の発信地〉でもありました。遊女たちの髷や衣装などを通じて“流行の最先端”を市井の人々に伝える場でもあったんです」(渡辺さん)
その説明を聞いていたMikanさんが目を丸くしながら「遊女はイマの“女性インフルエンサー”だったのね」と驚きの声を上げると、トーマスやワン氏も感心したように深く頷いた。
「放火」頻発の暗い歴史
さらに渡辺さんは、吉原の「負の歴史」についても語り始める。
「吉原も江戸時代後期になると、当初の“富裕層の遊び場”から大衆化路線へと舵を切り、それによって各遊廓の経営も次第に厳しくなっていきました。『遊女大安売り』を打ち出す店も現れ始め、遊女たちの置かれた環境も劣悪になっていった。実際、“腐ったご飯しか食べさせてもらえない”や“瀕死になるほどの折檻を受けた”という記録が残っています」(渡辺さん)
待遇面に不満を募らせ、反発した遊女による「放火」なども頻発したという。
ツアーの終盤、一行は現在の「吉原公園」に立ち寄った。ここは昔、「角海老楼」「稲本楼」と並ぶ〈三大妓楼〉の一つに謳われた「大文字楼」があった場所だ。吉原公園は階段を上がった少し高い場所に位置するが、これは「かつて妓楼が道よりも高い場所にあった」(同)ことの名残りという。
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