「短命横綱」の声を跳ね除け30歳で円熟期 千代の富士を「ウルフ」に生まれ変わらせた名大関のひと言
「飛行機に乗っけてあげるから東京に行こう」
千代の富士こと、秋元貢(あきもとみつぐ)少年が生まれ育ったのは、青函トンネルの北海道側の入口、北海道松前郡福島町。津軽海峡に臨む港町で育った貢は、漁師の父と一緒に舟に乗って漁を手伝うなど、自然の中で成長した。そのナチュラルパワーは、バスケットボールや道南大会で好成績を収めていた陸上競技などのスポーツに生かされていたが、なぜか相撲だけは好きになれなかったという。
ところが、中学2年の時に出場した町の相撲大会で、貢に注目した人物がいた。いきなりの相撲界への入門話。まったくその気がなかったため、その話を断ったのだが、翌年の夏、貢の家に突然訪れたのは、北海道が生んだ横綱・千代の山の九重親方だった。
九重親方の直々の勧誘を受けたものの、気が進まない貢に、親方は奥の手を出した。
「東京見物に行かないか? 飛行機に乗っけてあげるから」
エッ? 飛行機だって?
このひと言で、貢の気持ちは「飛行機」の一点に集中。
「その時は、東京に何をしに行くのかと言えば、一に飛行機、その次に相撲……くらいの無頓着な考えで、東京の九重部屋に入門したんです。親の心配もよそにね(笑)」
千代の富士は、当時をこう振り返って苦笑いする。
大きな四股名を付けた小兵力士
ともあれ、九重部屋に入門した貢は、部屋近くの中学に転校。昭和45年秋場所で初土俵を踏んだ時は、177センチ、71キロの細身の体だった。中学卒業後は、力士として土俵を務めながら、明大中野高校の全日制に通った。
ところが、稽古と部屋の仕事をこなし、東中野にある高校まで電車で通う毎日は、思った以上に貢を消耗させた。また、特別扱いを受けている分、兄弟子たちの視線も厳しかった。そして、昭和46年7月の名古屋場所で、初めての負け越しを喫した貢は、「中途半端じゃダメだ。相撲一本で勝負しよう!」と決意。高校を中退する。
真剣に相撲に向き合う環境が整った貢は、番付を上げていった。体の細さは相変わらずだったものの、17歳で幕下に昇進。肩の脱臼で苦戦を強いられたが、昭和49年九州場所、19歳の若さで新十両に昇進する。
マスコミに「昭和30年代生まれ、初の関取」と大々的に取り上げられつつ、翌年秋場所には20歳で新入幕。師匠「千代の山」と、兄弟子「北の富士」から受け継いだ「千代の富士」という大きな四股名を付けた小兵力士は、若手ホープとして一躍脚光を浴びることになったのである。
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