「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています…」 日本へ帰国、51歳で亡くなるまで続いた「アナタハンの女王」の苦悩

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晩年の和子

 地方巡業に出て1年2ヶ月後の昭和29年8月15日、興行師と決別した和子は“旅芸人の”道を捨て、大阪の労働者の町、西成区へ流れた。終戦から9年経ていたが、まだ大半が焼け跡で小さなBARやスタンド、居酒屋が数軒あるだけの鄙びた街だった。

 4日後、和子はその一角にある場末の旅館で女中として働き始めた。女中といっても男客の“お相手”が仕事だ。夜は酒に浸る日々が続いた。

 西成に来てから2ヶ月後の10月17日午前2時頃、スタンドで知り合った男に石で顔と頭を殴られるという傷害事件に見舞われた。血みどろになった和子は病院に運ばれたが、沖縄の住所や氏名から「アナタハンの女王」比嘉和子と判明してしまい、再びマスコミに注目されることになる。この時のマスコミの論調は「転落の女王」に変わっていた。

 この事件を機に沖縄へ帰る決心がついた。名護に戻った和子は再び「南栄楼」に勤めた。和子の人気は以前にも増して沸騰した。地方巡業で磨いた場末のストリップは南栄楼の名物にもなった。

 しかし、和子は、もはや歯止めが利かなくなっている不安と焦燥を、酒量を増やすことでごまかしている自分に気付き始めていた。これは、あのアナタハンで感じたものに似ていた。

2人の連れ子の母に

 堕ちていく和子を見かねた知人が一人の男性を紹介する。和子より11歳年上で2人の連れ子がいたが、腕の良い真面目な荷車職人だという。

 和子は少し躊躇いの色を見せた。自分も継母に育てられ、どうしても馴染めなかった過去を思い起こしていた。その継母になり、子供たちと幸せに暮らすことが果してできるだろうか。一人で決めかねた和子は、慕っている南栄楼の「帳場さん」に相談した。

「いい話じゃないか。あんたは周囲のことばかり気を遣ってきた。それで周囲が幸せになれば自分はどうなってもいいという考えだろう。それがかえって誤解を生んだんだよ。これからは自分の幸せだけを求めても罰は当たらないよ」

 和子にそう助言し、再婚を勧めたと、伊波寛一は回想した。

 昭和33年10月30日、めでたく結婚し、和子は新しい姓に変わり、妻となり、母となった。彼女は34歳になっていた。

 結婚後まもなく、当時の名護高校(後に移転)の向かい側で和子は「たこ焼き屋」を開いた。学校の傍とあって、店は大繁盛した。夏にはかき氷が飛ぶように売れた。店の合間には夫の仕事を手伝う仲睦まじい夫婦の光景もよく見られた。

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