「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています…」 日本へ帰国、51歳で亡くなるまで続いた「アナタハンの女王」の苦悩

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映画フィルムを抱えて東北巡業へ

 会見を終えた和子は、その足で東京に出てストリップ劇場の舞台に立っていた。銀座のコニー劇場を皮切りに、新宿フランス座、浅草ロック座、百万弗劇場と相次いで出演し、裸を晒した。派手な衣装を身に着けた和子は、その世界での「女王様」に変わっていた。人気は上々で1日3万円のギャラが支払われたと囁かれたが、実は和子の財布は興行師が握っていた。

 昭和28年4月には和子自ら主演した映画「アナタハンの真相はこれだ」(=新大都映画=全7巻)が封切られた。契約金は30万円。当時はサラリーマンの月給が5000円に満たない時代。大変な金額なのだが、実はこれも和子の手には渡っていない。

 そして、この映画が不出来で不評だったため「女王様」の影は薄れていく。封切りから1ヶ月後、和子ら一行は映画フィルムを抱えて東北巡業の旅に出る。背森、岩手、秋田、福島と回ったが「海鳳丸」の母港がある宮城県には立ち寄っていない。

 アナタハンで「海鳳丸」の乗組員が6人も死亡した事実を和子は知らぬはずが無かった。最後の夫S(海鳳丸の水夫)は和子が島を脱出した後、2人を殺害した罪の「裁判」で斬首刑に処せられ、島での最後の犠牲者となった。その遺族たちのいる街でアナタハンの腰振りダンスを披露することは、さすがの和子も憚かられたのだろう。その後は富山、福井と回ったが、アナタハンでの犠牲者や遺族は居なかった。

荒んだ生活で吐露した辛さ

「カズちゃんはどんなに苦しい状況に置かれてもいつも陽気に振舞っていました。愚痴や他人の悪口を決して言わず、周囲の人に気を遣っていました。あの子はそういう性格なんです。アナタハンでもそれが災いしたんでしょう」

 と歌子。

 だが、巡業中の和子は、次第に酒とギャンブルに溺れていった。競輪や競馬に熱中し、その日のギャラを博打で吐き出す始末だった。そんな荒んだ生活からいつ脱出できるのか、和子の心にアナタハンで味わった不安と焦燥が孕んでくる。この時の気持ちを和子は、後に伊波寛一に打ち明けていた。

「私は馬鹿よね、帳場さん。東京へ行って、私は騙されている、利用されているだけと分かっても、男の言い成りになってしまうの。いくら稼いでもお金は男(興行師)がみんな持っていってしまって。でも、夫婦同然の関係になってしまったからもう仕方ないとあきらめたわ。寄ってくる男たちは私を喰い物にする人としか考えなくなってしまった。それが辛いのよね……」

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