「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています…」 日本へ帰国、51歳で亡くなるまで続いた「アナタハンの女王」の苦悩
欲しがる男たちが悪いんでしょ
そして、和子が最初に勤めたのは料亭「南栄楼」だった。名護市の“社交街”と呼ばれた歓楽街にあった。沖縄の料亭は京都・祇園のお茶屋に似て、個室の宴会場に酒や料理を運ばせ、三線、太鼓、琉舞の芸者を呼び、歌や踊りを楽しむ社交場である。酌をする女給と意気投合すれば、場所を変えて一夜を共にすることができたという。
当時は社交街に23軒が軒を連ねていたが、現在は「八万」という店が一軒だけ残っている。その女将は「南栄楼」時代の和子を覚えていた。
「住み込みの女給で、物凄い人気でしたよ。彼女が来てから予約が1ヶ月先までうまるほど繁盛しましたね。『アナタハンの女王』見たさに本土からも大勢押し寄せたほどです。彼女は酔うと客の前で全裸になり、『アナタハン踊り』を披露して、またそれが評判を呼びました。当時の女給ですから、お客さんと話がまとまれば体を売ることもあったでしょう」
和子が「帳場さん」と呼んで慕った、前述の伊波寛一は当時を振り返った。
「ある時、南栄楼に売春容疑で警察の手入れがあって、11人の女給が連行されたのです。名護署の署長の前で和子は『女たちが悪いんですか。それを欲しがる男たちが悪いんでしょ』と大声で啖呵を切ったんです。名護署員15名中、10人が南栄楼の常連客でしたから、みんな和子に拍手を送りましたよ」
この時の和子の啖呵には、アナタハンで田中秀吉に「男たちの問題でしょ」と反撃した時と同じ響きを私は感じる。和子には故郷でも「性と生」の壮絶な戦争が続いたのだった。
わるいやつらと「女王様」
その頃、和子の人気にあやかり、ひと儲けを企む輩が集まり始めた。交渉は主に長兄宅で行われた。一番、被害を蒙ったのは長兄の嫁・歌子だった。
「ある日、沖縄の石垣市に住む伊波南哲という作家が来て、戦争の悲惨さを映画にして伝えたい、和子を東京へ連れて行くと言いましてね。学校も出ていず、教養も無い和子が騙されてはいけないと主人が付いて行ったんです。和子は2年後に戻ったのですが、主人から音沙汰が無くなり、帰って来たのは13年後でした」
和子の上京には多くの興行師がからんでいた。歌子の記憶では関西から来た「重宗」と名乗る興行師が「和子をスターにしてやる」と同行した。
昭和27年11月20日、和子ら一行は横浜港に上陸。100人を越える報道陣が取り囲み、和子は記者会見に応じた。
「私が悪い女だから、沢山の男が命を失ったように言われています。それはみんな違うのです。アナタハンの真相を知ってもらうために来ました」
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