「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは

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腰振りダンスを披露した和子

 アナタハンには南洋興発の責任者で同郷の比嘉菊一郎(29=当時)の一家が暮らしていたが、怪しくなってきた戦局を察知した菊一郎は妻子をサイパンへ避難させた。アナタハン島には南洋興発に雇われた原住民のカナカ族47人が、サトウキビ栽培などに従事しているだけだった。

 和子の平穏な生活はB29の来襲と共に吹き飛ぶ。昭和19年6月12日午後、この島は米軍機の猛爆撃を受けた。和子は当時、正一の子を身籠り、妊娠5ヶ月目に入っていた。産婆など居ない島での出産は不安だと、正一はパガン島に居る妹を迎えに行くため、2日前に島を離れていた。これが永遠の別れとなった。

 実はその前日に田中は食料調達の命を受けてアナタハンに上陸していた。この時、比嘉正一・和子夫妻と菊一郎から熱烈な歓迎を受けていた。ヤシの樹液で作った“トバ酒”を振舞われ、和子はカナカ族から教わったという腰振りダンスを披露してくれた。

 この席で田中は和子が身籠っていることを知り、翌日には能登丸でサリガン島へ向かう田中は、正一を同行させて、バガン島へ送り届けていた。田中はその直後に米軍機の爆撃を受け負傷し、奇しくも和子と再会したのだ。島に取り残された後も、この縁で和子は、年窩で分別を弁えている田中を慕っていた。

爆撃から逃げる際に流産

 12日の米軍の攻撃は凄まじかった。和子は菊一郎や合流した兵隊たちと共にジャングルの中を逃げ惑った。道無き道を走り、岩場から飛び降りた時、下腹部に激痛が走った。見る間に鮮血が股間を赤く染めていく……。流産だった。

 このことは和子の後半生を大きく変えたと言ってよい。もし、正一の子を出産していれば、兵隊たちが女として和子を見る目が変わっただろうし、彼女をめぐる凄惨な殺し合いは防げたかもしれないのだ。

「サリガンの猛爆撃を体験し、近隣のパガンもやはり爆撃されたと思った。そのため、正一はもう生きてはいないと思ったのだ。和子を呼び、そう伝えたんだ。そして、菊一郎と夫婦を装い、皆と離れた場所で暮らすように助言した。2人は偽装夫婦として生活を始めたが、次第に正式の夫婦でないことが分かるに連れ、男たちが和子を求めるようになった」(田中)

 その頃の若き和子は豊満な肉体を持ち、奔放な性格だった。

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