「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは

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米軍機の猛爆撃を受けて

 だが、海鳳丸の乗員は上陸してまもなく、米軍機の猛爆撃を受ける。波止場近くの岩窟で戸板に身を横たえていた田中は、停泊中の三隻の漁船が炎上していく様を戦争映画の一シーンのように眺めていた。島から脱出する手段はすべて破壊されていた。

 兵隊10人と臨時徴用された漁師など軍属21人、計31人の男たちは、こうしてアナタハンに取り残されたのである。昭和19年6月13日のことである。

 アナタハン島は、サイパン島から北へ150キロに位置する周囲30キロの小さな孤島である。楕円形の島の中央に火山があり、その周囲は熱帯のジャングルで平地は殆んどない。島の南側は浜辺と穏やかな水面が広がっているが、北側は断崖絶壁。海は荒波にもまれ渦を巻いている。

 一方、比嘉和子がこの島へ来たのは昭和18年10月、20歳の時である。5年前の昭和13年11月、同じマリアナ諸島のパガン島で知り合った同郷の比嘉正一(23=当時)と結婚。正一は南洋諸島農園事業を展開していた会社「南洋興発」の青年社員だった。18年にアナタハンの「コブラ(ココヤシの胚乳を乾燥させたもの)園」主任に栄転したことで、妻の和子も一緒に赴任した。この時期、和子の人生の中で最も平穏で幸福な生活だったといえよう。

継母に懐かず大阪へ

 和子のアナタハンへ来るまでの道程は決して平坦ではなかった。彼女は大正12年5月8日、沖縄県国頭郡名護町(当時)で生まれた。生家は貧農で、5人きょうだいの4番目。上に2人の兄と姉、下に妹がいた。しかし、和子が7歳で母親が、12歳で父親が相次いで他界。

「母親が亡くなった後、すぐ父親が再婚したので子供たちは継母に育てられました。でも、カズちゃん(和子の愛称)だけは継母に懐かず、尋常小学校を3年で中退し、大阪へ働きに出て行きました。南洋の孤島で6年間も生きていけたのは幼い頃に苦労していたからでしょう」

 名護市に住む義姉の宮里歌子(87歳)は昔日を思い起こして語った。

 14歳の時、大阪・岸和田のナニワ紡績に就職、織姫になったが長続きせず、1年3ヶ月後に沖縄に舞い戻った。しばらく地元の飲食店などで働いた後、昭和13年2月、サイパンへ出稼ぎ中だった長兄を頼り同島へ渡った。17歳の和子は、現地で兄の仕事を手伝っていたが、まもなくして隣島のパガン島へ。そこの食堂で女中奉公していた時、正一と出会い運命の島アナタハンへ辿り着いたのだった。

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