「アナタハンの女王」と呼ばれた女性の生涯 日本兵32人に囲まれ、そのうち5人と“結婚”、4人は不審死か別の男に殺害され…異様な孤島生活とは

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32人の兵隊たちと1人の女

 世間の関心は、敗戦も知らずに、孤島に6年間も取り残され、戦い続けた帝国軍人の武勇伝や勇姿ではなく、32人の兵隊たちと1人の女との“関係”である。

「私はこの島で骨を埋める覚悟をしたが、和子は『生きて祖国へ帰りたい』と何度も私に言っていた。和子と“関係”を持った男たちが殺されたのは事実なんだ。私も、2人殺されたのをこの目で見た。和子は決して『女王蜂』のように君臨した訳ではないが、彼女の奔放な振る舞いが男たちを刺激したことは間違いなかった……」

 これは、生還者の1人、田中秀吉(94歳)の証言である。6年前にも私は『アナタハンの真相』を取材し、20人の生還者を訪ね歩いたことがある。既に他界したり、連絡不能となっている者が大半で、存命が確認できたのは宮城県内に住む男性と埼玉県内に暮らす田中秀吉だけだった。

 宮城県の男性は「思い出したくもない」と取材を完全に拒否。一方、田中は「これまでの報道で真実が伝えられていない」と快く応じてくれたのだった。

アナタハンに寄港した三隻の漁船

 田中に召集令状が届いたのは昭和18年12月29日、34歳の時だ。ミッドウェー海戦で敗れた日本軍は南洋諸島での攻防に全戦力を注いでいる戦局だった。この頃になると兵役免除のはずの者や未成年者まで臨時召集兵として戦地へ駆り出された。

 妻と洋品店を営み、9歳の長男を頭に5人の子供がいた田中も陸軍二等兵として兵役に赴いた。補給部隊に配属され、軍用貨物船「能登丸」(9000トン)に乗船、激戦地の南洋諸島へ向かった。

 サリガン島に上陸直後、米軍機の爆撃を受け、田中は、臀部貫通及び左肩甲骨粉砕の重傷を負う。海軍に石巻港から徴用された木造漁船「海鳳丸」で、治療のためにサイパン島へ向かう途中、アナタハン島に寄航したのだった。

 波止場には同じく徴用漁船で神奈川県三崎港の「兵助丸」、函館港の「曙丸」が攻撃を逃れて避難していた。

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