小錦の土俵人生 「相撲はケンカ」「自分が日本人だったら」発言で物議 初優勝での号泣はうれし泣きではなかった

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「ずっと優勝したくても、できなかった」

 21歳になった小錦は絶好調だった。そして北尾(のち横綱・双羽黒)、保志(のち横綱・北勝海)、寺尾、琴ケ梅といった、小錦と同じ昭和38年生まれの力士も、こぞって力をつけ始めてきた。

 特に身長199センチの北尾は、小錦の好敵手となった。しかし、昭和61年夏場所中日、北尾との取組で右ヒザを痛めた小錦は、休場。大関昇進を射程に入れていた小錦の勢いは、このケガによって一時失速してしまう。体重の増加もネックとなった。240キロを超える体重は、ヒザに大きな負担をかけていた。

 しかし、小錦はあきらめなかった。昭和62年夏場所、12勝を挙げて、場所後、大関に昇進。先に横綱に昇進した双羽黒、大関・大乃国(のちの横綱)と共に、ヘビー級ならではの相撲の醍醐味に、ファンは沸いた。

 そして、平成元年九州場所、ついに小錦は14勝1敗で幕内最高優勝を成し遂げる。大関昇進から2年半が経っていた。優勝を決めて、勝ち残りで土俵下に座っていた小錦は、大きな目から流れ出る涙をこらえることができなかった。しかし、これはうれし泣きの涙ではなかった。

「ずっと優勝したくても、できなかった。そういう自分が歯がゆかった。あれは、なんでもっと早く優勝できなかったんだろう……という悔し涙だったんです」

昇進見送りをめぐる発言でも批判の対象に

 この優勝で小錦は、徐々にかつての勢いを取り戻し始めた。大横綱・千代の富士が引退。代わって、新星・若貴兄弟が台頭してきている。

「ボクが彼らの勢いを止めてやる」

 20代後半となった小錦だったが、いまだ大きな夢「横綱」を射止めてはいなかった。平成3年九州場所、2度目の優勝(13勝)、平成4年初場所、12勝、そして翌春場所、3度目の優勝(13勝)。成績を見る限り、小錦は横綱に昇進しても不思議ではない。けれども、小錦を待っていたのは、「昇進見送り」の知らせだった。

 悔しさはマックスに達していた。しかも、外国メディアの取材に対して、「自分が日本人だったら、横綱になっている」と発言したとされ、またもや物議に。「品格に欠ける」などと批判の対象となってしまう。

 そうした不運や度重なるヒザのケガで、小錦が長く務めた大関を陥落したのは、平成6年初場所のことだった。それでも平幕で相撲を取り続ける小錦に対して、「元大関のプライドはないのか」という厳しい声が寄せられた。

「プライドでメシは食えないからね(笑)。ボクは相撲が好き。だから、自分でできるところまでやってみようって、心の中で決めていたんです」

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