小錦の土俵人生 「相撲はケンカ」「自分が日本人だったら」発言で物議 初優勝での号泣はうれし泣きではなかった
同じ高砂部屋には高見山が
「日本で相撲を取ってみないか? 相撲の世界はつらいことも多い。私がそうだったから、オイシイことは言わないよ。でも、それをガマンして強くなれば、親孝行ができるんだ」
高見山の言葉は、サリーの心を捉えた。10人兄弟の8番目のサリーは、家の経済状況をよくわかっていた。自分が日本に行って出世して、家族に楽な生活をさせてあげたい。
「よろしくお願いします」
こうしてサリーは、昭和57年名古屋場所で初土俵を踏むこととなった。四股名は、高砂部屋伝統の「小錦」。周囲の期待の高さは計り知れなかった。
そうした期待に応え、翌秋場所、序ノ口優勝、次の九州場所でも序二段優勝と、出世は順調。ついに負け越し知らずで、58年九州場所、新十両昇進。59年春場所、夏場所は十両で連続優勝を果たしている。
小錦にとって恵まれていたのは、同じ高砂部屋に高見山がいたこと。また、他にもハワイ出身力士が入門していたので、部屋の力士たちも彼をすんなり受け入れることができた。
一人歩きした「相撲はケンカ」発言
なおかつ、小錦はすこぶる勉強熱心だった。最初はまったく日本語がわからなかったが、小学生用のドリルで文字を勉強。街に遊びに行かずに、部屋で相撲界のしきたりを覚え、日本の曲を聞いて単語を知った。
また食に関しても、高見山と違って魚もOK。環境に慣れるのが早い者は、おのずと相撲の出世も早いという公式は、やはり当てはまるようだ。
だから、蔵前最後の場所で注目を浴び、取材が殺到した際も、なめらかな日本語を話した。ところが、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。小錦が発言したとされる「相撲はケンカだ」という言葉が一人歩きし、各方面で物議を醸したのである。
「テレビのインタビューで、『相撲を取るには燃える気持ちが必要』と言おうとしたんだけど、その頃は日本語が完璧じゃなかったから、『燃える』をどう表現したらいいのかわからなかった。それで、『相撲はケンカ』の部分だけがクローズアップされてしまって……。ボクがマスコミをコントロールすることはできないし、一言一言気をつけて発言しなければという教訓になった出来事でしたね」
のちに小錦はこう振り返っているが、その後もこうした表現の食い違いが、小錦を苦しめることになる。
[2/4ページ]