ヒグマが人間6人を食べた三毛別事件を描いた 吉村昭「羆嵐」が今も読み継がれる理由

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ヒグマにも人間にも一切の感情を入れない

「『戦艦武蔵』(1966年刊)で注目を浴び、大忙しとなっていた吉村さんは、1970年から、『月刊ペン』誌上で、熊撃ち猟師を主人公にした短編の連載を開始します。現在、ちくま文庫『熊撃ち』としてまとめられている短編シリーズです。その取材で、北海道通いをしていたのですが——」

《それらの猟師の話をきいているうちに、大正四年に苫前の山間部の村を羆が襲い、妊婦をふくむ六人を殺害した事件があったことを耳にした。/私は、苫前に行って少年時代、危うく難をまぬがれた二人の方から話をきいた。ストーブのたかれた部屋で話をメモしながらも、窓からみえる雪におおわれた現場に時折り視線を走らせ、落着かなかった。/この事件を調査し、「羆嵐」という小説を書いた。》(新潮文庫『わたしの流儀』より)

「この事件を、ここまで予断を排して書いたひとは、吉村さんが初めてでした。戸川幸夫作品との大きなちがいは、ヒグマと人間、どちらにもまったく感情移入していない点です。聞いた話を、たんたんと綴っているだけなのです。それでいて、作家ならではの冷静で細かい視点も忘れていないところが見事です」

 ヒグマは、食い殺された被害者の通夜の席に再びあらわれたあと、さらに十数人が避難していた近隣の家に、壁を突き破って乱入、次々と人間を食い殺す。その場面。

《(略)十歳の少年は、土間に二段積みにされた雑穀俵のかげにひそんで奇蹟的にも難をのがれたが、かれは、羆の荒々しい呼吸音にまじって骨をかみくだく音もきいた。/かれの耳に、/「腹、破らんでくれ」/と、羆に懇願するような叫び声がきこえた。それは、臨月の斎田の妻が発する声だったという。彼女は、羆に食われながらも母性本能で胎児の生命を守ろうとしていたのだ。》

「ここは最大の凄惨場面で、ほかの本や記録では、もっと激しい直接描写で書かれています。しかし吉村さんは、すでに老人となっていたこの“少年”に会って話を聞いているんです。少年は俵の陰に隠れていたので“目撃”していない。骨を嚙み砕く音や、妊婦の『腹、破らんでくれ』との声を“聞いた”だけなのです。いくらでも直接描写で書けるのに、吉村さんはやらない。一切“脚色”せず、聞いたままを綴っている。それが、作品全体の信用度を高めています。実はクマは火を恐れない、最初に女性を食って味を知ると、以後も女性を襲う——などの科学的な視点も新鮮でした。『羆嵐』がこれほど長く読まれている理由は、ここにあると思います」

今も続く「クマ文学」

 吉村昭『羆嵐』によって、三毛別ヒグマ事件は、さらに広く知られるようになった。近年話題の漫画『鬼滅の刃』や『ゴールデンカムイ』にも、この事件をモデルにしたと思われるエピソードが登場する。

「また、2023年11月には、新しいタイプの動物文学で知られる河﨑秋子さんの新作『ともぐい』(新潮社)が刊行されました。明治時代、北海道の山奥で孤高の生き方を貫く熊撃ち猟師が主人公で、まさに21世紀の『羆嵐』とでも呼びたくなるような、凄まじいクマ文学です」

 河﨑秋子は、2014年に『颶風の王』(角川文庫)が三浦綾子文学賞などを受賞したことで全国的に知られた。

「この作品名に、暴風を意味する“颶風”〔ぐふう〕という珍しいコトバが使われていましたが、実は吉村さんも『羆嵐』のなかで使っているのです。冒頭部分、追い詰められたヒグマが反転してこちらに向かってくる、ゾッとする場面です」

《かれらは、雪煙が下降してくるような予感におびえ、視線を傾斜に走らせていた。それは、野獣のまき上げるものというよりは、颶風に似たものが雪を吹き散らして走り下ってきたような速度とたけだけしさを感じさせた。》

「この颶風のイメージが、終盤の《クマを仕とめた後には強い風が吹き荒れるという》激しい吹雪“羆嵐”を予告しているわけです。吉村さんならではの表現です」

 ヒグマは、約600人の討伐隊に追い詰められ、死闘の末、6日目についに仕留められる。「颶風」ともいうべき羆嵐のなかを、男たちは死骸を橇に乗せて運び、分教場の校庭に引きずり出す。村人たちが死骸を取り囲む。ある老婆が近づいて、涙を流しながら杖でヒグマの死骸をたたきはじめた。

「このあとは、とても冷静には読めません。吉村さんの数多くの記録文学のなかでも、屈指の名場面だと思います」

《区長の胸に、熱いものがつき上げてきた。人の環がくずれ、女、子供、老人たちが橇に近寄ってゆく。たちまち橇の周囲に、泣き声がみちた。嬰児を背にくくりつけた女が、泣きわめきながら挙〔こぶし〕で羆の体をたたく。藁靴をつけた足で蹴る老人もいた。(略)それを取り巻く男たちの間からも、嗚咽が起った。》

 そして猟師が、蛮刀でヒグマの腹を割き、巨大な胃の中に手を突っ込む。そこからつかみ出されたものは……。

 2023年4月~12月末までで、熊害の死者は全国で6人。三毛別ヒグマ事件の死者7人(胎児含む)に並びつつある。

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