「農道を90キロで爆走」「寝坊して逆ギレ」 加藤鮎子大臣、数々のパワハラを元秘書が告発「当選後に逃げ出した秘書は10人以上」【スクープその後】

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「損得勘定で動いているように見える」

 そもそも鮎子氏が衆院議員として踏み出したのは、紘一氏が倒れた後の14年12月。山形3区から衆院選に出馬し、初当選を果たした時からだった。

 しかし、紘一氏はもともと「世襲反対」論者だったという。

 地元議員によれば、

「鮎子さんが後継指名される前には、紘一さんから“娘が選挙に出たいらしいんだけど、どう思うか”と相談を受けたことがありました。もともと世襲に反対していたこともあり、かなり悩んでおられた様子でした。結局は本人の熱意に負けて、という感じでしたけどね」

 ただ、当選後、地元の後援会や支持者は父と娘の違いをまざまざと感じることになる。地元の古い支援者に聞くと、

「紘一さんは党の役職や東京の仕事は頑張るんですけど、あまり地元には(利益を)還元してくれない一方で、地元の有権者と膝を交えて話し合うような親しみやすさがありました」

 例えば、地元の議員の家に支持者を集めての座談会をよく行っていた。

「私の家に農協や市議、県議らを集めてね。お酒はあまり飲まなかったけど、近所で取れたヤツメウナギの白焼きや芋煮などの田舎料理をうまそうに食べていました。つまみを囲みながら、地元の人の要望を“そうだなあ”と聞いている。世間で言われているプリンスのイメージとは違って、気さくな方でした」(同)

 まさに小魚を煮るようにじっくりと話を聞いていた紘一氏。かたや鮎子氏は、と支援者が続ける。

「そういった座談会を開いて地域の人と交流することはないし、一度でも鮎子さん以外の人や彼女の意中にない人を応援した支持者には、お酌もしなければあいさつもせず、無視して、ぷいっと行ってしまう。損得勘定で動いているように見えました」

 先の地元議員がため息をつく。

「ある時、鮎子さんの対抗馬である議員の政治活動のお手伝いをしたことがありましてね。昔からの付き合いもあるので仕方なかったんですけど、それに鮎子さんは“許せない”と激高して、以後、あいさつしても目も合わせてくれなくなってしまいました。正直、随分小さい人だなと思いましたよ」

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