「農道を90キロで爆走」「寝坊して逆ギレ」 加藤鮎子大臣、数々のパワハラを元秘書が告発「当選後に逃げ出した秘書は10人以上」【スクープその後】

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“おどは突っ込んで戦うべきだ”と涙

 実は、この涙のワケに、当時まだ20歳を過ぎたばかりだった三女・鮎子氏の存在があったという。

「鮎子さんは乱の様子を伝えるテレビ中継を、青山の自宅マンションで見ていたと聞いています」

 とは宏池会を長く取材してきた政治ジャーナリストの泉宏氏。

「鮎子さんも妻の愛子さんも紘一さんが乱を起こすというのは事前に分かっていて“今日はおど(山形弁で父親のこと)の勝負だ”と身構えていたというんです。しかし、鮎子さんは次第に立場が厳しくなる父の様子をテレビで見ながら感情が激し、紘一さんに電話で“おどは突っ込んで戦うべきだ”と泣きながら訴えたといいます。その娘の言葉が脳裏に浮かび、思わず涙したのが真相でしょう。今、振り返れば、この『加藤の乱』が鮎子さんに影響を与え、紘一さんの後を継ぐ、という強いモチベーションにつながったことは間違いないはずです」

政治家として再起不能になるほどの傷

 紘一氏はこの“事件”で政治家として再起不能になるほどの傷を負った。宏池会は分裂し、さらに、02年3月には、加藤事務所の代表として、また金庫番として権勢を振るっていた秘書の佐藤三郎氏が所得税法違反(脱税)で逮捕される。

 社会部デスクが言う。

「公共工事の『口利き料』などの所得を申告せず、約1億7千万円を脱税したとして起訴されました。佐藤氏は愛子さんにゴルフを指導するなどして接近し、二人の“関係”も取り沙汰されました」

 この佐藤氏が代表を務めていた資金管理団体から、紘一氏は9千万円余りの資金提供を受け、生活費に流用していたとして、東京地検特捜部から政治資金規正法違反の疑いで事情聴取を受ける。結果、その年の4月に議員辞職。翌年の衆院選に無所属で当選を果たすも、その後は政治家として日の目を見ることなく、脳卒中に倒れ、16年、鬼籍に入った。

鮎子氏が父に寄せた言葉

 紘一氏の死後、関係者に配られた『最強最高のリベラル 加藤紘一伝』という書籍がある。山崎氏、愛子氏、鮎子氏によって編纂された同書では鮎子氏が最後にこう言葉を寄せている。

「大平正芳元総理から父が受け継いだ言葉に『大国を治(おさむ)るは小鮮を烹(煮)るが若(ごと)し』という老子の言葉があります。小鮮とは、小魚のことで、『政治は、小魚を煮るときのように、じっくりと国民の声を聞き、丁寧にすすめなければ形が崩れてしまう』という意味だそうです。(中略)今後、私も地域に根差した保守の精神を受け継ぎ、父の行動を範としながら進んでまいりたいと思います」

 父の死から7年がたち、皮肉にも加藤の乱の渦中にいた現・宏池会会長の岸田文雄総理によって、こども相に抜てきされた鮎子氏。だが、彼女の事務所はまさに小魚が煮崩れするように、崩壊の一途をたどっていた。

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