「お母さん!」元連合赤軍・永田洋子は獄中で叫んだ…激痛にのた打ち回りながら、14人の死者と向き合った人生

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お母さん!

 小康状態は短かった。98年暮れから、頭痛で夜中に眼が覚めるようになる。

「これが8日間も続いているというのに、東拘の医務部は私の病気に正面から対応しようとしません。私は96年2月に松果体部腫瘍内で出血し、発作を起こしたのですが、この時も6日間放置されました。今はまだ出血物が腫瘍内にあるため、私のつらさ、苦しさは続くばかりなのです。この苦しさは筆舌に尽くし難く、布団の中に横になると思わず、

 苦しい!
 つらい!
 お母さん!

 と大声で叫びだしてしまうのです」

 極限の苦痛の中で永田は、母を呼ぶ。50代半ばの「娘」が、「お母さん!」と、母に助けを求め訴える。長い間、固く律し、押し込めていた素直な感情が、ようやく流れをみつけたかのように。

 更年期の苦しみを味わった娘は、改めて母の「生」を思う。

「母は私を20歳で産んでいます。母は私たちの連赤問題を、更年期の47歳の時に、知らなければなりませんでした。母は前橋署にも松井田署にも面会に来てくれましたが、警視庁に移管されてからは一度も来てくれませんでした。代わりに父が来るのですが、駅で母と待ち合わせをし、差し入れの食べ物を受け取ってからくるのです。

 母は私の逮捕だけではなく、マスコミの報道でも苦しみ抜いたに違いありません。そこに更年期のつらさが加わるのです。今、初めて気づいたその事実に驚くと同時に、母のことを考えるとあまりに苦しくつらく、困惑してしまうばかりです」

 永田は、さらなる悲劇に気づく。

「同時に、14名の同志のお母さんたちも更年期に、娘・息子が殺害された事実に直面しなければならず、どんなにかつらく、夜も眠れず苦しまれたことだろうと思うと、改めて頭を下げるしかありませんでした。そして再び、頭を上げるなんてことはできないと思うのでした」

誤りを見つめる

「今日も眼痛で、字も読めません。今、左眼をつぶって書いています。ワァーと叫び出したい衝動にかられます。静かに落ち着いてと自分に言い聞かせてますが、むずかしい!」(99年7月16日付、秋田弁護士宛手紙)

「頭と眼の痛さが続き、痛くて、なだめられない思いです。耐えるしかないと思っても、耐え切れないと思うほどの状態です」(同年10月29日付、同)

 想像を絶する苦しみの中で、永田は99年11月、12月、00年1月付で、3通の控訴審判決を考察する文章を書き上げた。最高裁判決は控訴審を踏襲したものだけに、再審に向けて控訴審の事実誤認を明らかにしたかった(永田の再審請求は01年7月になされた)。

 一審判決では事件はすべて、「永田の個人的資質と森の器量不足」に矮小化された。しかも永田は、「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり……」とまで罵られた。控訴審ではこれら女性蔑視表現は消え失せたものの、事実認定において永田への批判が強調されるものとなった。

 判決の性格を象徴するのが、女性兵士、大槻節子さん「殺害」の経緯だ。そこでは「永田は大槻への殴打を唱えるにあたり、その理由として彼女が自分を見る目つきが反抗的であること、自分だけを反抗的な目つきで見ることは反革命でしかない旨言って(中略)、永田の思い上がりを如実に示すものであると同時に本件一連の暴力的総括要求なるものの性格を窺わせるに足りる言動である」と断罪されていた。

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