「お母さん!」元連合赤軍・永田洋子は獄中で叫んだ…激痛にのた打ち回りながら、14人の死者と向き合った人生

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前編【元連合赤軍「永田洋子」の獄中生活 「夜中に頭痛で眼が覚め、苦しむばかりで眠れない日。もはや耐え難く…」】からのつづき

 2011年2月5日夜、東京拘置所で獄死した元連合赤軍最高幹部の永田洋子死刑囚。死刑が確定する13年前に脳腫瘍の手術を受け、その後は悪化する体調に苦しめられた。脳腫瘍の諸症状と更年期の諸症状が「複合」するという苦痛の中で、自らが犯した逃れられない誤りを直視し、改めて母の「生」を思う――。永田死刑囚の手記と支援者だった秋田一恵弁護士の証言で、その苛酷な獄中生活と消えなかった悔恨の念を振り返る。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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脳の壊死で視野障害と記憶障害が

「独房には大きな鏡なんてありませんから自分の全身を見る機会は、整髪をしてもらう時だけです。その整髪時、鏡に映った私の全身の姿は、細い、つまらない、味もそっけもない一本の木というものでした。これほど痩せてしまったと思っていなかっただけに、私は激しいショックを覚えました。そしてその顔は、私のものではないと思われるほど怖いものでした。『こんなの、嫌!』と叫びたいほど、恐ろしいものだったのです」

 食事が全く摂れない状態が、長く続いた時期のことだった。永田は94年秋頃から、更年期障害に苦しめられる。

「私が患っている松果体部腫瘍という脳腫瘍の諸症状と更年期の諸症状が、単に重なるのではなく、『複合』し、それだけ長く大変な日々を過ごさねばならなかったことは必然だったのです」

「ようやく、つらさが一皮剥けたよう」に感じ、最悪の事態を脱したのは、97年のことだった。ここにきてようやく、死刑確定後初めて、まとまった文章が書けるようになったのだった。永田は呻吟の日々を、こう記す。

「死刑確定から一年半後、食事がほとんど摂れない事態になりました。食べ物を口に入れると、食道に鉛が入った感じがし、一日中苦しいばかりなので、もう如何ともできませんでした。この“鉛の苦しさ”と共に、“ガーン”として眠れないのですから、どう表現したらいいかわからないほどの、それはまさに生の地獄、いえ、それにとどまらないほどのすさまじいものだったのです。医務部は精神安定剤を投薬しただけで、この異常事態を理解しようとしませんでした。毎日面会に来てくれる夫が、『あの時期は、死ぬんじゃないかと思った』そうですが、私はただ、この異常さに一日一日耐えるのに精一杯で、死を感じることはありませんでした。

 この異常事態に加えて放射線照射による脳の壊死で、視野障害と記憶障害が出現しました。本を読んでいても行の下まで来ると、隣の行の文字と溶け合って見えるのです。しかも今、聞いたことさえ、わからなくなってしまう、“記憶をポトポト落とす”状態ですから、文脈さえわからず、新聞も本も読めなくなりました。どうしたらよいのか途方にくれるばかりでしたが、とにかく、思考のための努力を繰り返すしかないと思うのでした」

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