元連合赤軍「永田洋子」の獄中生活 「夜中に頭痛で眼が覚め、苦しむばかりで眠れない日。もはや耐え難く…」

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かつては「鬼のような女」と罵られ

「夜中に頭痛で眼が覚め、苦しむばかりで眠れない日。もはや耐え難く、もう嫌だと叫びたくなってきます。それでも、私は落ち着いて、私の思考をするしかないのだと改めて強く思わされるのです。私は、私たちが殺害してしまった14名の同志たちの“生”のことを考えずにはおれません。彼らにはどのような“生”があった筈なのかと考え込むと、どうしたらよいのか居ても立っても居られない気持ちになり、改めて、死刑囚にも“生”はあるのだと考えさせられてしまうのです」

 98年12月27日、永田は東京拘置所の独房で、苦痛に喘ぎながらこう記した。すでに幾晩も、「声をあげ、叫びたくなる程!」の苦しみが続いていた。

 その2日後の日記には、便箋の余白に、こんな文字が書き散らされている。

「空が白みかけてくる。長い間、眠れず苦しんでいたことを感じ、悲しかった」

 満足な医療も受けられない、閉ざされた空間の中で、苦痛にのたうち回るしかない自らの「生」に、「悲しい」という言葉をあてた時、かつて「鬼のような女」と罵られた、永田の無防備な心が一瞬、あらわになる。だが、そこに込められた重さは、想像することすら難しい。

日本に衝撃を与えた「連合赤軍事件」

「連合赤軍事件」は、40代以上なら、誰の脳裏にも焼きついている事件だろう。

 森恒夫(当時27歳。73年1月、東京拘置所で自殺)率いる「赤軍派」と、永田洋子(同27歳)率いる「革命左派」の、2つの新左翼組織が合体した「連合赤軍」が、71年12月から72年2月にかけて、群馬県榛名山中などの山岳アジトで、「総括」という名のリンチを加え、仲間12人を殺害した事件だ(「革命左派」はそれ以前に、脱走した仲間2人を処刑していた)。

 逮捕を逃れたメンバー5人が「あさま山荘」に立てこもり、銃撃戦を繰り広げ、日本中の目をテレビに釘付けにしたことも、40代以上(※編集部注:05年の記事掲載当時)なら記憶に残っていることだろう。

 その後、小学生の間で、「総括ごっこ」なるものが流行ったが、若い世代にとってなじみのないこの言葉は本来、「全体を見渡してまとめる」という意味だ。当時の新左翼運動では闘争を評価するという意味で使われたが、「連赤」において「総括」という言葉は、暴力による個人批判、つまりリンチと表裏一体のものに変貌した。

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