元連合赤軍「永田洋子」の獄中生活 「夜中に頭痛で眼が覚め、苦しむばかりで眠れない日。もはや耐え難く…」
2011年2月5日夜、元連合赤軍最高幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚が東京拘置所で獄死した。70年代初頭に起こした複数の事件でリンチと殺人の罪に問われ、93年3月に最高裁が上告を棄却したため死刑が確定。獄中で執筆活動を行う一方、80年に脳腫瘍の手術を受け、その後も更年期障害や脳萎縮などとも闘っていた。永田死刑囚の手記と支援者だった秋田一恵弁護士の証言で、その苛酷な獄中生活と消えなかった悔恨の念を振り返る。
(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)
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獄中で迎える、33回目の雛祭り
「つらくて、つらくて、もう死んだ方がいいって思うんです。だけど、弱音を吐いたらだらしがないから、がんばる」
05年3月3日、東京拘置所女区の面会室。透明なプラスチックボードを挟んで、永田洋子は力なく微笑んだ。上告審以来、20年にわたり永田を支えてきた、秋田一恵弁護士の久々の面会だった。奇しくも獄中で迎える、33回目の雛祭り。27歳で逮捕された永田はこの2月、60歳になった。
「とても年齢通りには見えませんよ。小柄で華奢で、かわいい人です。髪型はずっとショートだったのに、ロングヘアーになっていましたね。だけど、これまでもさまざまな病状に苦しむ永田さんを見てきましたが、この日は、今まで会った中で一番つらそうでした。最初、声も出ないほどでしたから。それにしても『だらしがない』って、今じゃ死語でしょ。だけど彼女は、そう言うんですよ。想像を絶するような苛酷な状況下でね」
面会を終えた秋田弁護士が唇を噛む。永田洋子、元連合赤軍最高幹部。現在、日本に二人しかいない、女性確定死刑囚の一人である。
手記に記された永田洋子の“生”
死刑確定は、93年3月のこと。この間永田は、親族(判決確定前に結婚した夫のみ)以外の外部から遮断された、監獄の最奥ともいえる場所で、84年に手術した脳腫瘍の悪化に加え、激烈な更年期障害による、間断のない激痛に翻弄される日々を生きてきた。
「『ともかく、よく生きてきた』って、永田さん、そう言うのです。毎年届いていた年賀状が今年、来なかったから心配していたのですが、具合が悪すぎて、もう書けないって……」
秋田弁護士の言葉に無念さがにじむ。「もう、まとまったものを書くのは無理でしょう。外へ向け、メッセージを発していくことが生きる糧だったのに……」
ここに97年から00年にかけて、病で途切れながらも、永田が執念をかけ書き上げた手記がある。本人の了解のもとにこの手記を通し、永田洋子の“生”をたどりたい。それは、秋田弁護士の言葉に従えば、永田洋子が獄中から発する、最後のメッセージになるのかもしれない。
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