元公明党委員長・竹入義勝氏死去 田中角栄に日中国交回復を決断させた交渉の全内幕
田中邸を極秘訪問した竹入義勝氏
〈昭和47年7月23日夜、目白の田中角栄邸の通用門に1台の車が滑り込んだ。
正面玄関には警備の警官が常駐し、新聞社の車が止まっていることもある。人目を避けるために、あらかじめ訪問時間を決め、その時刻になると正面玄関脇の通用門がスッと開けられるのだ。そうしたやり方で、田中角栄と個人的にも親しいその人物は、これまでにも何度も田中邸を訪れていた。車に乗っていたのは、公明党委員長の竹入義勝(76=注・記事掲載時)だった。
応接間に通された竹入は、挨拶もそこそこに用件を切り出した。
「角さん、大平さんから聞いていると思うけど、北京へ行く。ついては、竹入という男を私も信頼していると、一筆書いてくれないか」
しかし、田中角栄の返答はつれないものだった。
「行くなら、行ってこいよ。だけど紹介状は書けないよ」
すかさず竹入は気色ばんで切り返した。
「お前さん、本気で中国をやる気があるのか」
田中角栄は、7月7日に史上最年少で総理に就任したばかりだった。以来、日中国交回復に関して、「機は熟した」と前向きの姿勢を示していたのだが、次の言葉に竹入は耳を疑った。
「おれは総理になったばかりだ。今、日中に手を付けたら、田中内閣は吹っ飛んじゃうよ。紹介状は書けないね」
話はそれで終わりだった。〉(「週刊新潮」2002年10月10日号)
元衆議院議員で、公明党委員長を20年務めた竹入義勝氏が2023年12月23日、福岡市内の病院で肺炎のため、97歳で亡くなった。国鉄職員から東京都文京区議や都議を経て、衆院選に公明党が初めて進出した、1967年1月の総選挙で当選し、翌月、第3代党委員長に就任した。
自民党の要人とも深い関係を築いていたことでも知られたが、竹入氏といえば1972年、田中角栄内閣における日中国交正常化の“陰の立役者”である。幾度かの訪中で中国要人とのパイプを築いていた竹入氏は水面下でどう動いていたのか。「週刊新潮」は、国交正常化30年を期して、竹入氏はじめ関係者に当時の内幕を取材し、「初めて明かされた国交交渉の舞台裏 田中首相がその時叫んだ『それでは内閣が潰れる』」でレポートしている。
冒頭で紹介したエピソードの出来事から、わずか2か月後の1972年9月25日。田中首相は大平正芳外相ら政府代表団約50人と共に、日航特別機で秋晴れの北京空港に降り立っている。「内閣が吹っ飛んじゃう」と言った田中首相が、中国入りを決断した背景には何があったのか(以下、引用は上記「週刊新潮」より)。
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