「差別された時代も…」「純粋さが部員に伝わる」 「留学生ランナー」は箱根駅伝の歴史をどう変えたか
雪の中でトラックを50周走るときは…
2年になった93年にはオツオリやイセナと同じくケニア代表でユニバーシアードで1万mに出場し(結果は4位)、世界の舞台を初めて知った。だが世界選手権や五輪出場を目指すとなるとケニアでの予選に出なくてはならず、日程的に参加は無理だった。さらに箱根の2区で区間賞を獲得して自分をアピールしたいという思いもあり、そこが最大の目標になった。
「もう4年間2区と決められていたし、そこで勝たなくてはいけない。メディアも渡辺とライバル対決と報道するので、プレッシャーはありました。ところが、勝つためにもっと速いペースで練習をしたくても、12月になると練習量を落として他の選手と一緒に走るように指示される。でもそれでは勝てないと思い、雪の中でトラックを50周走る時は途中からペースを上げたりもしていました」
大学が好成績を残すためには、自分がしっかり走らなければいけないというプレッシャーを抱えたマヤカは、箱根の2区は自分が走るべき場所だと考えていた。それとともに、留学生だけではなく日本人選手にとっても箱根は、その先のために自分をPRする格好の場だという意識も持っていた。
“自分がやっている駅伝は何だろう”
オツオリやマヤカが来日した頃は国内にケニア人は少なかったが、その後、高校や実業団も含めてケニア人選手が多くなると、状況は変わってきた。真也加は、
「自分たちの頃は寮に公衆電話が1台あるだけで情報はメディアからしか得られず、頭の中には学校と練習しかなかった。でも今は携帯電話があるので、競技以外にもいろいろな情報が入ってくるようになった」
と言う。上田も、
「今は実業団を含めると外国人選手は100名近くになり、当初自分たちが思っていたのとは状況が変わりつつあるのも事実」
と話す。
05年入学のメクボ・ジョブ・モグスも箱根で歴史を作った選手だが、大会に行くと同年代の実業団選手に「何で実業団に来ないんだ」と言われた。ケニアに帰っても、「近所の誰々は企業で走って大金を稼ぎ、家を建てたり、畑を広くしている。お前は何をやっているのだ」と言われる。夏合宿の時にポツンと寂しそうにしているのを見た上田が声をかけると、「悩んでいる」と答えた。
「彼は高校駅伝も経験して大学へ来たけど、同年代の選手が実業団に入って稼いでいるのを見て“自分がやっている駅伝は何だろう。チームって何だろう”と気持ちが揺らいでいたんです。2区で最初の10Kmを27分20秒で入って最後はフラフラに失速し、“ママ”と叫んで走っていた2年の時は、心の中にそういう思いがあったのでしょう。でも翌年から2年連続区間新だったから、“自分はチームで育ってきた”と自覚し、箱根駅伝やチームを選択したんだと思います。タスキをつなぐ駅伝を理解してくれた」(上田)
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