「差別された時代も…」「純粋さが部員に伝わる」 「留学生ランナー」は箱根駅伝の歴史をどう変えたか
「最初があの二人だったからよかった」
箱根を走った後は「何で走らせる」とか「害人」とまで言ってくる人もいたが、二人を認める人たちの輪は広がっていった。
「チームで駅伝を走る意味も、日々の中でわかっていってくれた。来た年のメンバー発表で外れて泣いていた選手が次の朝からチームのサポートをしているのを見て、“辞めたくならないんですか”と驚いていたが、“そういう気持ちにもなるだろうが、チームのために彼は次の日には笑顔で頑張れと声をかけるんだ”と話して。そういったことひとつをとっても、彼らは感動し、理解していくんです」
左膝蓋靱帯の損傷で順天堂大に抜かれた4年時、オツオリは走ったあと「申し訳ない」とずっと泣いていた。3区のイセナの快走でトップに立つと、「イセナが助けてくれた。彼にタスキをつなげてよかった」とも言って安堵の表情を浮かべた。
「最初があの二人だったからよかった、というのは非常にありますね。ケニアでは、当時からアメリカやヨーロッパのスカウトが来ていて強い選手はそっちへ行く。国内では警察か軍のチームで走るくらいで、そのほかの道が日本で走ることだった。そんな時にいいコーチと知り合い、“本当に真面目だから”と勧められたのが二人だった。それを僕もよく信じたと思うが、本当にいい出会いでしたね。オツオリはケニアに帰ったあとのテレビ取材で、自分の子供について“将来は日本の大学に行って走り、五輪や世界選手権に出られる選手になってほしい”と言っていて。彼らだから他の選手にも受け入れられたし、その延長線上にマヤカがいた。だからマヤカは渡辺康幸くんともいいライバル関係を作れたのだと思います」
日本人選手との対決
そのステファン・マヤカは今、日本で結婚して“真也加”と改名し、桜美林大駅伝チームで監督を務める。
彼が山梨学院大に来たのは、高校の先輩のオツオリが上田と一緒に選手を探しに来て紹介されたからだ。大学に入る1年前に来日し、翌年4月からは山梨学院大附属高に編入した。最初はもう一人留学生がいたが、連れてきたコーチが帰国後ケニアで死亡し、その葬儀で帰るとそのまま日本には戻らず、マヤカ一人になった。
真也加が往時を振り返る。
「4月から高校に入ったけど、その頃は陸上部がなく、他校に留学生もいなかったのでインターハイも国体も出られなくて。ただ、日本ジュニアだけは出場でき1万mで優勝したが、そこから渡辺や大学で一緒になる尾方剛とのライバル関係がスタートしました。1年間オツオリさんたちとも一緒だったので、自炊のしかたなどいろいろ教えてもらいました」
渡辺は早稲田大学に進み、学生最強といわれた名ランナー、尾方も後に世界陸上のマラソンで銅メダルを獲得した強豪選手だ。
来日直後の91年に箱根の本戦を初めて見たマヤカは、観客の多さに驚いたという。だが沿道に出るとファンにオツオリと間違えられて「写真を撮ってくれ」と囲まれたため、最後は車から降りるなと言われたと苦笑する。
「顧問の秋山さんが箱根のビデオを見せていろいろ教えてくれ、頑張ればいい会社にも入れると言われて。オツオリさんとイセナさんも卒業してからトヨタ自動車に入って高い給料をもらっていたので、自分も頑張って有名になれば同じようになれる、という気持でした。でも最初の頃は、朝練をやって日本語学校へ行き、それが終わってから大学で授業を受けて夕方は7Kmくらい離れたグラウンドに自転車で行って練習と、一番辛い時期でした」
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