「差別された時代も…」「純粋さが部員に伝わる」 「留学生ランナー」は箱根駅伝の歴史をどう変えたか

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テレビ中継を見て“これは何のフェアだ”

 二人が成田空港に着いた時、彼らから輝く才能は感じられなかったという。だが二人から初めに出た「アドバイスが欲しい」との言葉に上田は驚いた。

「走りを見てからアドバイスするよと伝えると、“ケニアのコーチに日本に着いたら上田というヘッドコーチが迎えに来るから、日本でやっていくための言葉を最初にもらいなさい。それをお前たちは絶対に守らなくてはいけないと言われた”と言う。それで子供の頃に剣道で教わった、『最初に来て準備をし、練習が終わったら掃除もして最後に帰る人が一番強くなる』という言葉を思い出して話しました」

 オツオリとイセナが来日したのは87年秋。高校生向けの就学ビザがないため、交換留学生として附属高校に編入して日本語を学んだ。その時期に箱根予選会や本戦も見た。海外では駅伝という競技がない。だから、

「ハーフマラソンを10人が走る大会自体が信じられないというし、沿道の観客の多さやテレビ中継されているのを見て“これは何のフェアだ”と驚いていました。そんな中で走ることなど思いもよらなかったのでしょう」

 と上田は笑う。

 オツオリは89年、1年生の時に最長区間であり、各校のエースが名を連ねる「花の2区」で区間賞獲得のデビューを果たしたが、後に93年のユニバーシアードのマラソンで優勝することになるイセナは、箱根初出場の89年は8区でビビってしまい、最初の1Kmも3分30秒でしか入れず区間15位だった。また関東インカレの3000m障害に出してみると、ハードリングが下手過ぎて観客席がどよめくほどだった。

銭湯で背中を…

 だが、二人の真面目さは周囲が目を見張るほど。上田の最初の言葉も忘れることはなかった。

「二人が寮に入ってすぐ、オツオリと同室の選手が“監督、困っています”と相談してきて。どうやら彼が起きるのが早過ぎて迷惑らしい。それで、起きてから彼が何をしているかと尋ねると、着替えて外に出ていくと言う。だから“彼は汗をかいて朝の集合に出ているじゃない。俺はお前の言うことに困るよ。彼に走るなとは言えないじゃないか”と諭した。すると“申し訳ありません”と答え、朝一緒に走るようになった。イセナも同じだったので彼と同室の選手も走るようになり、それを見て他の部員も早くから走って朝練の開始時刻も徐々に早まってきて。それで“今年もいけるな”という手応えを感じました」

 日本に来た当初はケニアの生活習慣から、生野菜を「危ないので」と言って食べず、外を歩いていて蛇が出ると「先生危ない。毒があるかも」と警戒するほどだった。まだ18歳の高校生だった彼らの、そんな朴訥さが周囲の選手に伝わった。寮の近所では最初は驚かれたが、彼らの学ぼうとする人間性に触れることで距離が縮み、銭湯では背中を流し合う間柄になったり、買い物に行くと声をかけてくれるようになった。日本の文化に慣れよう、学ぼう、頑張って走ろう。そういう気持ちが近隣の人にも届いた。

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