「差別された時代も…」「純粋さが部員に伝わる」 「留学生ランナー」は箱根駅伝の歴史をどう変えたか

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 お正月の風物詩となって久しい箱根駅伝。そこに無くてはならない存在であるのが、留学生ランナーたちだ。初出場から35年。当初は批判や反発を受けることもあった彼らは、箱根に何を刻み、何を残してきたのか。スポーツライターの折山淑美氏がその今昔をレポートした。【折山淑美/スポーツライター】

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 今回で第100回を迎えた箱根駅伝。

 出場23校中7校が留学生を擁し、2023年10月の予選会では関東以外の2校も含め、19校22名の留学生がエントリー。今や大学駅伝では、その存在が当たり前のようになっている。

 その先鞭を付けたのは山梨学院大だった。箱根駅伝出場を目標に、順天堂大で3年連続5区を走って区間賞を2回獲得した上田誠仁監督(現・顧問)を1985年に招聘(しょうへい)。陸上競技部を強化育成クラブに指定して3年目の87年大会で初出場を果たした。上田は早くからケニア人留学生加入を考え始め、初出場のあとには顧問の秋山勉とともにケニアに渡った。

チーム全員に一度退部届を書かせ…

 当時国内で活動するケニア人選手は、瀬古利彦を指導する中村清に師事してヱスビー食品陸上部に入部し、マラソンで87年世界選手権金、88年ソウル五輪銀を獲得したダグラス・ワキウリくらいだった。

「秋山さんから“この間、中国に行ってきたけど、目を広く向けた方がいいんじゃないか”と話されたのがキッカケです。違う空気を入れたいというのはすごくあったし、自分たちのチームを強くしたかった。でも助っ人頼みにはしたくなかったですね。すごく強い選手を連れてきても自分たちでは対応できないし、チームの中で変な化学反応が起きてしまうのも避けたかった」

 真面目で学ぶ姿勢を重視したと上田は言う。

 ジョセフ・オツオリとケネディ・イセナが88年に入学することが決まると、上田はそれを選手たちに伝えた。だが反発する者もいてチームがバラバラになった。夏合宿できつい練習をして疲れているときは不平不満も激しくなる。そこで上田は全員に一度退部届を書かせて受理し、一人ずつと話して「何を目指したいか」を聞いた。結局退部する選手は一人もいなかった。

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