プロ野球“仁義なき越年闘争” 「評価は言葉じゃなく、お金しかない」…落合博満、下柳剛、福留孝介の“銭闘”を振り返る!

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代理人交渉第1号

 日本人選手では初めて代理人交渉で契約更改に臨んだのに、年内に決着せず、年明け後、年俸調停にもつれ込むほど難航したのが、2000年オフの日本ハム・下柳剛である。

 同年、シーズン途中から先発に転向し、1完封を含む8勝4敗の成績を残した下柳は「(選手では)交渉のうまい、下手の格差があるし、代理人に交渉を任せて、その時間をトレーニングや体のメンテナンスなどに充てたい」という理由から、上杉昌隆弁護士を代理人に指名。日本人選手の代理人交渉第1号となった。

 だが、1億5000万円へのアップを希望する下柳に対し、球団側は1億3750万円の線で譲らない。その後、球団側から「代理人が入って金額が上がるとなると、会社の理解が得られない」の声も聞こえてきた。
 
 納得できる回答を得られなかった下柳は「ほとんど歩み寄りがないのは、代理人を使っているのが理由なら、今後、代理人交渉を行う場合に問題となる」として、2001年1月17日に年俸調停を申請した。これに対し、球団側も「申請については予想できていた。我々に正当性があるので、調停でも自信はある」(今井俊一常務)と受けて立った。

 そして、2月2日、調停委員会は「安定感に欠けた前半戦ではあったが、後半戦の活躍に加え、シーズン36試合の登板数などを勘案した」という理由から、「1億4000万円が妥当」と下柳寄りの裁定を下した。

「すべてを受け入れるつもりだった。代理人を立てたことで、負担が軽くなって、練習に専念できて良かった」と安堵の笑顔を見せた下柳だったが、翌02年に2勝7敗と大きく成績を下げると、2対2の交換トレードで阪神に放出されている。

「言葉が出ません。唖然としたかな」

 3年連続で越年し、今も「契約更改で揉めた選手」というイメージを強く残しているのが、中日時代の福留孝介である。

 2004年、05年オフと2年続けて越年交渉の末、ようやくサインした福留は、翌06年オフは、表彰式やイベント出席など、多忙なスケジュールを理由とする“自動越年”だったにもかかわらず、結果的に3年間で最も揉めた。

 同年の福留は、打率.351で首位打者を獲得したのをはじめ、31本塁打、104打点を記録し、チームの2年ぶりVに貢献。06年12月27日のイベント出席後、「僕たちの評価は言葉じゃなく、お金しかない」と語るなど、年明け後の“銭闘”に並々ならぬ決意を見せていた。

 そして、翌07年1月21日、ハワイ自主トレから帰国後の第1回交渉では、年俸4億円を希望する福留に対し、球団側は6月に右膝の故障で1ヵ月近く欠場したことやチーム最高年俸(3億9000万円)の守護神・岩瀬仁紀とのバランスなどを理由に、3億8000万円を提示。当然のように交渉は難航し、「言葉が出ません。唖然としたかな」「久々に呆れました」などの“福留語録”もネット上で大きな反響を呼んだ。

 最終的にキャンプ終盤の2月22日、球団側が500万円を上積みし、3億8500万円でようやく合意を見たものの、福留自身は「野球選手はユニホームを着てグラウンドに立つのが仕事。契約しないと立てないので、サインした。納得はしていない」と不満そうだった。

 同年オフに4年総額53億円でカブスと契約し、中日に別れを告げた福留だが、契約条件で揉め、チームを出ていった選手の中では珍しく、阪神を退団した2000年オフ、14年ぶりの中日復帰が実現。「またユニホームを着させていただくことができて、感謝の一言」と古巣復帰を喜んだ福留は、現役最後の2年間を中日でまっとうした。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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