プロ野球“仁義なき越年闘争” 「評価は言葉じゃなく、お金しかない」…落合博満、下柳剛、福留孝介の“銭闘”を振り返る!

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日本人選手では初の「年俸調停」を申請

 プロ野球の契約更改も大詰めだ。近年は2021年オフのオリックス・山本由伸のように多忙を理由に越年する選手もいるが、過去には条件面で折り合いがつかないまま、“仁義なき越年闘争”に突入した選手も少なくない(金額はいずれも推定)。【久保田龍雄/ライター】

 越年交渉を経て、日本人選手では初の「年俸調停」を申請したのが、1990年オフの中日・落合博満である。

 同年の落合は打率.290、34本塁打、102打点で、本塁打王、打点王の二冠を獲得。年俸1億6500万円から3億円(その後、2億7000万円に譲歩)へのアップを希望した。一方、球団側の提示は、チームがBクラスに沈んだことなどを理由に、2億2000万円にとどまった。

 交渉は越年となり、翌91年1月15日、落合は「今のプロ野球は魅力がないから、子供たちはゴルフやサッカーやほかのスポーツに行ってしまう。プロ野球を魅力のあるものにするには、球界の年俸の底上げをすべきだ。王(貞治)さんでも最高8000万円だと言われて、3度三冠王を獲ったオレが2億で辞めれば、次に来る選手が同じように言われる」とアピールした。

 そして、自費参加でキャンプ突入後の2月15日、落合は川島廣守セ・リーグ会長に年俸調停を申請した。野球協約94条に定められた参稼報酬調停の申立を行ったのは、1973年の阪神の外野手、レオン・マックファーデン以来2人目だった。

「ある意味では、オレの勝ちかもしれないね」

 だが、調停委員会は3月8日、球団側の主張を全面的に認め、落合の年俸は「2億2000万円が妥当」との裁定を下す。

 同日夕、裁定文を受け取った落合は「川島セ・リーグ会長に(申立書を)お渡しして、その時点で契約は交わしたと思っていました。たまたまその金額が2億2000万円ということで。これでこの件は終わりにしたいと思いますので、皆さんもそのように」と、手短に会見を終えた。

 落合はけっして金額にこだわっていたわけではなく、年俸調停を行うことによって、忘れかけられていた野球協約94条の存在を世間に知らしめ、契約更改のあり方に大きな一石を投じるのが狙いだったようだ。「調停を申し出た時点で、ある意味では、オレの勝ちかもしれないね」の言葉どおり、その後も1993年の横浜・高木豊から2011年の西武・涌井秀章まで5選手があとに続いている。

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