【追悼・寺尾】「ビニール製の間仕切りを抱きしめて泣いていました」阿炎の優勝をたった1人病室で…相撲と弟子を愛し抜いた「土俵の鉄人」

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この時ばかりは褒めたんですよ

 引退届は受理されなかったものの、この出場停止が阿炎を変化させた。すでに妻子を持つ身だったが、錣山親方は家族と離れての部屋住まいを言い渡し、生活をイチからあらためさせた。阿炎はサボりがちだった稽古も早朝から率先して励むようになり、体つきも変わってきた。

「みなさんにご迷惑をかけてしまったので、生まれ変わった阿炎を見ていただきたいと思っていました」

 師弟一体で復帰の道を歩んだ結果、出場が認められた阿炎は、幕下で2場所連続優勝。さらに十両でも優勝を果たして、幕内に復帰する。しかし、2022年秋場所は、右ヒジと左足首の手術の影響で全休した。

 前頭9枚目で臨んだ同年九州場所は、いわば「復帰の場所」だった。

「7月の名古屋場所の時から、阿炎はヒジ、足首が相当痛かったと思います。ただ、『人前では絶対に痛いそぶりを見せるなよ!』という私の言葉を守ってくれた。阿炎に関して誉めたことはほとんどありませんが(笑)、この時ばかりは『よくやりきった』と誉めたんですよ。だから、九州場所は『リハビリみたいなものだから、負けても勝っても思い切り行きなさい』と送り出したのです」

 九州場所中、阿炎との連絡は毎日メールで取っていた。

「本場所中、相撲場に行く前と帰ってきた時に、弟子から挨拶を受けるのですが、内容の悪い相撲を取った者に対しては、頭ごなしに怒ってしまうこともあるんです。ただ、九州場所では一歩引いた立場で冷静に相撲を見ることができて、阿炎を含めた弟子たちの長所、短所がわかったのは、よかった点でした」

阿炎の目から涙は止まらず

 初優勝後、錣山親方と阿炎が直接対面したのは、冬巡業が終わった12月中旬のこと。その時も、多くの言葉をかけることはなかったと語る。

「まぁ、『おめでとう』くらいは言いましたけどね(笑)。いつまでも浮かれた気分ではいられませんから。阿炎には『次』があるのだから、気持ちを切り替えていくように伝えました」

 弟子には終始厳しく接していた錣山親方だったが、「1つ屋根の下に暮らす弟子は、家族と同じだから」と、全員を下の名前で呼び、愛情を注いでいた。

 再び体調を崩して入院したのは、2023年秋場所中。リハビリに励むなど、回復の方向にあったのだが……。同年12月23日、東京・清澄の錣山部屋でおこなわれた錣山親方の告別式で、阿炎の目から涙が止まることはなかった。

「ずっと迷惑ばかりかけましたが、父親のように広い心で守ってくれました」(阿炎)

 錣山親方は、近年務めていた、木戸口での入場チケットのもぎりの仕事の際、

「相撲、楽しんでいってくださいね」

 と、ファン1人1人に声を掛ける優しい方でもあった。

「突っ張りの寺尾」、そして多くの関取を輩出した錣山親方は、60年の人生を駆け抜けていった。

武田葉月
ノンフィクションライター。山形県山形市出身、清泉女子大学文学部卒業。出版社勤務を経て、現職へ。大相撲、アマチュア相撲、世界相撲など、おもに相撲の世界を中心に取材、執筆中。著書に、『横綱』『ドルジ 横綱朝青龍の素顔』(以上、講談社)、『インタビュー ザ・大関』『寺尾常史』『大相撲 想い出の名力士』(以上、双葉社)などがある。

デイリー新潮編集部

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