「箱根駅伝中継」はかつてテレ東が放送していた…お正月の超人気番組に育てた日テレ“驚異の演出力”とは
テレビ東京による中継の時代
今では箱根駅伝中継は日テレの看板番組だが、実はNHKが行う可能性もあった。駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟の学生が1970年代、同局に中継を頼んだ。NHKは1953年からラジオで箱根駅伝を中継していたからだ。しかし、実現しなかった。これも生中継が技術的に難しかったためである。
箱根駅伝中継は実現不可能かと思われていたが、そこへ名乗りを挙げたのがテレビ東京である。最後発の民放ながら、スポーツ中継には積極的だった。日本で初めてサッカーW杯を放送したのもテレ東だ。伝説のサッカー番組「三菱ダイヤモンド・サッカー」(1968年)で、1970年のメキシコ大会の全試合を放送した。
テレ東の箱根駅伝中継は1979年から始まった。しかし、生中継ではなく、往路が行われる2日の放送はなし。復路が開催される3日に1区(大手町-鶴見、21.3キロ)から9区(戸塚-鶴見、23.1キロ)までのダイジェストを録画で流し、生中継はゴールまでの10区(鶴見-大手町、23.0キロ)のみだった。
それでも視聴者の関心は高かった。1984年1月3日の放送は正午からの2時間枠で、13.5%と上々の視聴率を記録した。だが、この数字では怪物番組とは言えない。
怪物番組にした日テレスタッフ
1987年、中継権は日テレに移る。視聴率が急上昇したのはここから。同年は途中で中断があり、往路が1部18.0%、2部18.7%。復路が1部14.1%、2部21.2%。1995年は往路が27.1%、復路が28.8%。2005年が往路は23.7%、復路は29.9%。2015年が往路28.2%、復路が28.3%(以上、視聴率は全て世帯)。1990年代の時点で他局は太刀打ちできなくなった。
どうして中継権が日テレへ移ったのだろう?
「箱根駅伝を関東学連と共催する、系列の読売新聞社からの要請だった」(日テレOB)。読売は日テレの技術力なら完全生中継も可能と考えたらしい。また、局内に「箱根駅伝中継をやるべきだ」と強く唱え続けるスタッフがいた。
生中継が困難であることは日テレにとっても同じだった。しかし、同局に は「スポーツ中継なら自分たちが一番である」という自負が強いのだ。プロ野球中継の現行形をつくりあげたのも同局の故・後藤達彦ディレクターである。
1957年、後藤氏はKOされた投手のあ然とする顔をアップで撮った。こんな演出はそれまでになかった。ベンチ内、ブルペンを初めて映したのも後藤氏だった。プロ野球中継をドラマにした。
日テレは山間部からの箱根駅伝を中継するため、ヘリコプターを飛ばし、中継車からヘリに向けて電波を飛ばした。ヘリを中継用の衛星のように使う「ヘリスター」方式を導入したのである。
[3/4ページ]