俳優生活60年「前田吟」の告白 実母に二度捨てられた孤独な幼少期、自分で飼った鶏の卵を1個7円で売っていた極貧生活とは
俳優座「花の15期」
ある程度のお金もたまり、次は東京か――その時、倉橋からは「俳優になるなら、俳優座だ。俳優座を目指しなさい」と言われた。上京後、東京芸術座で1年間勉強し、19歳の時、晴れて俳優座に。前田の期は「花の15期」と言われる。原田芳雄、栗原小巻、太地喜和子、夏八木勲、地井武男、小野武彦、林隆三、村井國夫……今も第一線で活躍する名優が顔をそろえていた。
「僕は生い立ちの事はずっと隠していました。恥ずかしいからではなく、俳優座というのは、きちんとした生活で、いい成績で高校を卒業した人が集うところだったんです。一僕は一応、高卒資格はあるけれど、よく入れてくれたなと思って。試験は4次まであって、面接も厳しかった。でもね、僕は試験に海パン一丁で行ったんですよ。皆、ビシッとした格好をしているけど、僕だけ海パン一丁。それで発声やパントマイムをやった。面接では当然、何故? と聞かれたけど、表現するには裸が一番だろうと(笑)」
バイト生活も変わらない。とにかく意識して声を出す仕事を選んだという。サンドイッチマン、キャバレーの呼び込みやボーイ。同じ「いらっしゃいませ」でも口調や語調を変えて大きな声で練習できる。客にウケれば、それは嬉しい。
「渋谷の喫茶店で僕がバーテン、村井がボーイをやっていたことがありました。村井が栗原小巻にただでチョコレートパフェを出したりしてね。ある日、小野武彦のお母さんと弟が店に来て、また村井が勝手にパフェをただで出しちゃったの。そうしたら帰りがけに小野のお母さんがすみませんと、わざわざ僕に挨拶するもんだから、店の人間にバレちゃってね。お前ら、こんなことしているのかって、僕だけクビ。村井はそのまま働いているんだから(笑)」
親兄弟も親戚もいない。身一つで東京に出てきた前田は、すぐに次の仕事を見つけて食いつないだという。実は20歳の時、すでに前妻と結婚し、子どももいた。
「俳優座には黙っていましたけどね。だから、仕出しのエキストラもやっていました。あと、とにかく仕事を取らないといけない。だからオーディションを受けるときは、とにかく目立とうと、そればかり考えていました。俳優座の試験の時と同じで、どうやったら他の人より目立つか、面接官の印象に残るのか、それだけを考えてね。だからオーディションがあると、ちょっと君だけ残ってくれとよく言われるようになって」
1964年のテレビ朝日系 のドラマ「判決」で、俳優としてデビュー。翌年にはTBS系「純愛物語」で早くも主演を務める。そして68年、24歳の時に映画「ドレイ工場」で早くも主演を務める。ここで誠実な工員を演じた姿を山田洋次監督が目に留めていた。「男はつらいよ」で博役になるきっかけでもある。
――なんとも順調な役者人生のスタートだったのではないか?
「いやいや、とんでもない。今でもそうですけど、いつ食えなくなるか、仕事が来なくなるか、常にその不安はありますよ。子供の頃からお金に苦労したけど、稼げるようになっても、お金は無駄に使えないんです。収入が安定した時には、子どもが4人いて…。贅沢といえばゴルフくらいかな。あ、自分の家に風呂がついたね(笑)」
ざっと振り返ってもらったが、実はまだまだ苦労したエピソードがある。だが、そんな人生を生きてきたとは思えない、明るく陽気に話してくれる前田の人柄に、自然と人が集まってくるのだろう。後編【最後まで渥美清さんの真似だけはできなかった…俳優生活60年「前田吟」が語る「仁義なき戦い」「八甲田山」「寅さん」】は、代表的映画とその思い出を聞いていく。