鶴岡八幡宮も太宰府天満宮もかつてはお寺だった… 人気の初詣スポットが受けていたおぞましい破壊

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 初詣、すなわち新年の社寺参詣は、日本人にとっての伝統行事だと思われているが、必ずしもそうではない。年明けに地元の社寺を参拝する慣習は、江戸時代からそれなりにあったようだが、有名な社寺を遠路参拝する人が増えたのは、明治に鉄道が開通してのちのことである。

 では、参詣の対象となる有名な社寺は、古い伝統を維持しているのだろうか。維持していないとは言い切れないものの、じつは、多くの社寺が明治維新以降、その姿を大きく変えてしまっている。境内の様子が変わったというだけではない。その社寺のあり方までが根本的に変わってしまったケースが少なくない。

 たとえば、毎年多くの初詣客を集める鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)。武運の神である八幡神を祀る純粋な神社だと思っている人が多いのでないだろうか。ところが、明治維新を迎えるまでは、鶴岡八幡宮寺という名の寺だったのである。

 寺だったころの鶴岡八幡宮の様子について、門前の寺の住職だった静川慈潤が、明治45年(1912)に証言を残している(『神仏分離史料 第三巻』)。それによると、神橋を渡ると左右に、仏教で不殺放生の教えを表す「放生池」(現在の源平池)があり、その先に「仁王門」が構えられ、くぐると「五大尊像」を安置する「護摩堂」が建ち、その奥の「輪蔵」には、源実朝が中国から取り寄せた「元版一切経」が収蔵され、「四天王像」も置かれていた。その東南には、正和5年(1316)の銘がある「梵鐘」が釣られた「鐘楼」があった。

 おわかりかと思うが、いまカッコで囲った語はみな仏教由来のものである。これだけでも仏教色がかなり強かったことがわかるが、この程度では納まらない。多宝塔と鐘楼の東北に建つ「薬師堂(本地堂)」には「薬師三尊像」と「十二神将像」が祀られていた。また、正面の大石段を上った本宮(上宮)も、本殿前の右手に「聖観音像」がある「六角堂」が、左手には「愛染明王像」がある「愛染堂」が建っていた。

 このように、江戸時代までの鶴岡八幡宮は、鳥居や社殿こそあるものの、その景観は仏教寺院そのものだった。ところが明治2年(1869)、仏教系の堂塔はことごとく破壊され、徳川家光が寄進した梵鐘は鋳つぶされ、経文はみな焼き捨てられてしまったのである。

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