おとうちゃんの死後、大屋政子のミニスカートの丈は何故どんどん短くなったのか
「弱い母でごめんね」
思えば政子の不幸は、没落の悪夢に終生つきまとわれたことにあった。カネも名誉もその悪夢から解放されんがためのものではあったが、山ほどのカネと名誉を集めてみたところで、所詮は埋まらぬ心の風穴だった。
華々しい舞台の裏で、飽くなき欲動に駆られるその姿に、人は守銭奴の影をみる。政子に対する毀誉褒貶の激しさは、恐らくそんなところからきているのではないだろうか。
人を信じられないというのは経営者として、やはり致命的だった。派手な事業も一皮剥けば、負債の山。帝人から借りた金を返済せず、収益のほとんどを新たな事業に投入し、規模だけがむやみに膨れたに過ぎなかった。
それでも、帝人が気長に構えてくれているうちは良かったが、ひと度返済を迫られれば、政子が心血注いだという事業など一溜まりもなかったのである。
入院中も寝巻きの上にフランスの勲章
平成9年2月、政子が経営する奈良の「室生ロイヤルカントリークラブ」は、帝人の子会社から会社更生法適用の申立てを受ける。度重なる催促にもかかわらず、借金を返済しなかったためであった。この一件以降、政子の事業に瓦解の影が静かに忍び寄っていく。
その年の夏、政子は胃ガンの告知を受け、胃の4分の3を切除した。余命2年と医者は言ったが、政子にはその事は伏せられた。
「入院中も寝巻きの上にフランスのコマンドール勲章をつけていました。『医者になめられる』と言って、絶対に外そうとしなかったんです」(登史子)
もう1度ゴルフがしたいからと、手術後も病院の階段を上り下りして身体を鍛えた。翌年夏にはヨーロッパを回り、ゴルフをするほど回復したが、11月に倒れ再び入院する。
明けて1月16日午後5時59分、政子は息を引き取った。最期の言葉は登史子に向けられた「こんな弱い母でごめんね」というものだった。
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