おとうちゃんの死後、大屋政子のミニスカートの丈は何故どんどん短くなったのか

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占いにのめりこみつつも「事業は強行突破」

 そしてこの頃から、前にも増して占い(政子は八卦と呼んでいた)にのめり込んでいくようになった。

「多いときで、10人くらいは占い師にみてもらっていました。それをみんなミックスしてエエとこだけを大学ノートにびっしりと書き込むんです。辛口なことは絶対に聞きません。でもその占い師たちも信用しなくなって、最後は我流の方法で自分自身を占うようになっていったんです」

――事業は強行突破あるのみ。

 当時、取材を受けると政子は自分を奮い立たせるかのように必ずこう答えた。

 それを裏付けるように、事業は一層派手になり、平成元年にはパリ郊外に敷地30万坪のお城付きのゴルフ場を購入したりする。時に、ゴルフ場だけで5ヵ所(国内2ヵ所、海外3ヵ所)を持ち、病院、タクシー会社、アパート、ガソリンスタンド、焼鳥屋など実に10以上の事業を営んでいた。

 傍から見る限り、この時期の政子は絶頂の最中にあった。事業は確実に拡大していき、一方でエンターテイナーとしてその類い稀な才を存分に発揮する。テレビのお笑い番組はもとより、時代劇や舞台にも出演し、女子中高生から「政子ちゃ~ん」と呼ばれ人気を博した。

「社交性に富んだ女性」という虚像

 しかし、交友が広がり周辺が賑々しくなればなるほど、本来の政子とは乖離していく。その広い交際範囲から、政子は今日に至るまで社交性に富んだ女性と受けとめられているが、それはある種の虚像であった。

――友達なんか1人もいらん。

 政子は終生そう思っていたという。

 登史子が語る。

「自分のすべてをさらけ出さないと、本当の友人なんてできないものでしょ。でも母は自分をさらけ出すことがどうしてもできなかった。心のどこかにある弱い部分を、誰にも語りたくなかったし、見せたくもなかったんです。弱さは罪であると思っていたみたいでした。だから、『そんなことをするくらいなら、友達なんか1人もいらん』と言ったのです。悲しいことですが、母に本当の友人といえる人はほとんどいなかったと思います」

 晋三と結婚して間もない頃、大臣夫人となっていた政子のもとに、女学校時代の同級生らが、就職の斡旋など、様々な頼み事を持ち込んできたことがあった。そのとき、政子は「頼み事をするだけの友達なんかいらん」と思ったという。

 弱さを罪と考えていたなら、恐らく他人の前で平気で頭を下げる同級生らを政子は軽蔑したことだろう。同時に、自分ならたとえどんな状況になろうとも、そんなことは決してしないと思ったはずだ。

 かつて没落したときに母娘で訪れた府議会議員から受けた非情は、政子の胸に強烈な屈辱を刻んだ。そしてたった一度とはいえ、不覚にも他人に弱さを見せてしまった自分を羞じた。このときから政子にとって弱さは屈辱と表裏一体になった。だからこそ自分の心の弱さを政子は憎んだのではないか。

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