おとうちゃんの死後、大屋政子のミニスカートの丈は何故どんどん短くなったのか

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前編「【大屋政子の壮絶人生】幼少期の悲惨体験、父親の墓前で誓った敵討ち…極度の人間不信がもたらした尋常ならざる金銭への執着」からのつづき

 1999年1月16日、78歳で死去した大屋政子さん。「派手好きで守銭奴」のイメージを進んで受け入れるような言動の裏には、生涯忘れられない“少女期の屈辱”があった。トレードマークだったミニスカートには、そんな大屋さんの複雑な心理状況が隠されていたという。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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「なめられたらあかんのや」

 昭和31年10月、政界を引退した晋三が再び帝人の社長にカムバックする。

 晋三が政界に身を置いている間に、ライバル会社の東レがナイロンの開発に成功し、合繊業界首位の座を帝人から奪った。それに比べ、帝人は戦前の王座を支えていたレーヨン以外に新商品の事業化が進まず、ついには旭化成にも抜かれ業界3位にまで転落してしまっていた。晋三は、帝人の再建のために会社に再び呼び戻されたのだ。

 晋三がカムバックした翌年5月、政子は『五菱土地建物』(三菱を超えるような会社になるようにと政子が命名)なる会社を設立。次の年には不動産会社『大盛起業』を興し、その2年後の昭和35年には大阪府下の『四条畷カントリー倶楽部』の理事長に就任する。

 この頃、ある雑誌の取材にこう答えている。

「これからや。今後10年間で100億円を儲けるのが、うちの理想や」

 生活費の捻出のために始めた政子の事業はいつの間にか飽くなき利潤追求の野望へと変わっていた。

「母はへこんだときに服装が派手になる」

 登史子によれば、例のミニスカートがどんどん短くなっていったのは、晋三が死んでからのことだという。

 帝人社長のまま晋三が急性肺炎で亡くなったのは昭和55年3月のことである。このとき政子は59歳。事業家として一角の成功を収めていた時期であった。

「母は昔から、へこんだときに服装が派手になるんです。父が亡くなってからは『なめられたらあかんのや』が母の口癖になりました。なめられないよう、派手なミニを穿いて自分に勢いをつけていたんだと思います。ですから、どんどん丈が短くなっていったということは、それだけ母の精神状態は不安定だったということなんです」(一人娘の登史子さん、以下同)

 当時、政子は晋三の遺産問題やその特異な金銭感覚を、週刊誌などから批判されていた。また帝人も濃すぎた先代社長の色を徐々に薄めはじめ、同時に政子とも距離を置くようになっていた。

 政子は、「おとうちゃん」という後ろ盾をなくしたことで、これまで順風満帆だった事業の行く末に、暗雲が漂い始めたのを感じたのかもしれなかった。

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